建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

復活の体2  ルカ24:39~43

2001-38(2001/9/16)

復活の体2  ルカ24:39~43

 第二に、イエスの「霊的体への復活」ではなく、「イエスの肉体への復活」というルカやヨハネの立場を支持して受け入れるキリスト者は、現代においても多数存在することは確かである。先の使徒後教父の文書にもあるとおり、この立場は、ルカの教会の見解であって、後80年代のみならず第二世紀にはパウロの見解よりも広まったようだ。しかしながらこの立場が、パウロの復活理解に対してどのような態度をとったかは明らかではない。とはいえ一方のパウロの主張した、霊的体への復活論と他方のルカの主張した「身体具有的復活論」とは、正典聖書がしるした二つの相異なる復活論である。イエスの十字架に関して、一方の「すべてが成就した」とのヨハネの見解や敬虔な殉教者的な死をとげたとルカの見解とは真っ向から対立する、イエスが絶望の叫びをあげられて死をとげられた、とのマルコとマタイの見解が存在している。それゆえ、復活に関しても相異なる見解が新約聖書において共存していたにしても、それほど驚くには当らないと考える。
 第三に、パウロの見解「霊的体への復活」とルカ、ヨハネの見解「肉体への復活」との対立をなんとかして統一しようとの見解がある。
 ミハエリスはルカ伝の記事の、復活した方がもっている「肉と骨」は、パウロの《霊の体と矛盾するものではない》と解釈した。
 「『イエスはご自分を生きたものとして示された』(行伝1:3)は、蘇生とは関連しておらず、むしろ復活し高挙された方の《生命》を言っている。…パウロは顕現においてご自分を啓示したキリストを《霊の体》(第一コリ15:44)《変容させられた》(15:43)《天的な》身体性(15:49)《栄光の体》(ピリピ3:21)と特徴づけている。…ルカ24:39の、復活した方の手足の提示、幽霊ではないとの言葉は、復活した方が《ある身体性において顕現した》と把握すべきだ。復活した方の身体性の場合、変容させられた、霊的な身体性を意味して《いない》という根拠はまったく《ない》。ルカ24章の表現(幽霊ではないとの言葉、手足の提示、弟子たちの前での食事)をパウロの《霊的な身体性》と関連づけることは拒否されない。ルカによれば幽霊には肉も骨もなく、復活した方がけして幽霊でないとすれば、復活した方は、パウロの用語でいえば『霊的な(変容させられた、天的な)ソーマ・体』をもたない、とはいって《いない》し、また『魂的(地上的な)ソーマ・体』をもっていた、とはいっては《いない》。ルカのいう『肉と骨』はパウロが『ソーマ・身体、身体性』という概念で表現したことを表現している。肉と骨への示唆をとおして、このソーマ・体の霊的な性格に異論を唱えているのではなく、むしろソーマ的なもの(身体性)の現実性が証言されているはずである」(ミハエリス「復活した方の顕現」1943)。この解釈に私は感動をおぼえた。