建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

死の中で神に出会うー4

パンフレット2-4

被造物性としての人間の死ーー創世記2、3章
 ここからは「罪の報酬としての死」ではなく、被造物性としての死のテーマを取り上げたい。死のこの二つの形の間には、《「第二の死」からの解放の出来事としてのイエス・キリストの十字架の死》が介在している、と私たちは考える。
 旧約学者H・W・ヴォルフは「人間の死ぬべき被造物性」について述べている(「旧約聖書の人間像」第2部11章、生と死。ヴォルフ自身はバルトが、滅びとしての死と被造物としての死をはっきり区別した点を高く評価している)、
 「老人がついに死んだという場合、罪と無常性〔罪の結果としての死と人間の被造物性としての死〕との関連はほどんと表面に出てこない。この場合旧約聖書が想起させるのは、人が十分生きた後に死ぬことが『人間の被造物性』であるということだ。すでに(ヤハウイスト史料の)創世記2、3章の楽園物語の中でも、《罪によってひき起こされた死と被造物としての死との間には微妙な区別》がなされている。すなわち、2:16、17「ヤハウェは人に命じて言われた。あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪の知恵の木からは食べてはならない。その木から食べるとあなたは死ぬであろう」。2:17は知恵の木に手を伸ばすことを死の刑罰によって脅している。ところが蛇との対話(3:15)や禁断の木の実を食べたことで(3:6)受けるはずのものとなったにもかかわらず、《その死刑はついに執行されなかった》。むしろ一転して労苦に満ちた人生を送るようにとの命令に変わったのである(3:17以下「ヤハウェは人に言われた、あなたは私が食べてはいけないと命じておいいた木から取って食べたから、《あなたは一生の間労しつつそこから食物を獲ねばならない》」)。けれども結局死は起こる。そしてその死は、はっきり人間の創造を想起させる言葉で説明されている。3:19後半「(「あなたは顔に汗してパンを食べる)ついにあなたが畑の土に帰るまで。あなたはそこからとられたからである。あなたはちり〔塵〕だから、ちりに帰るのだ」について、ヴォルフはこう解釈している、
 この箇所では創世記2:7「ヤハウェは地の土くれから人を創造し、彼の鼻に生命の息を吹きこまれた。そこで人は生きた者となった」が厳密に引用され、しかも《2:17にある死刑の命令とは全
く関連づけがなされていない》。3:22には《『永遠に生きる』のは神であって人間には許されない》とある。人間には永遠に生きることは、越権や略奪によっても自分のものとすることはできない。ヤハウイスト〔史料〕創世記2、3章は人間がちりからつくられた《死すべき被造物である》とみなしたのだ。

被造物性へのパウロの見解
 パウロはIコリ15:42~49で、「天的な人」に対比した「地上的な人間の特徴」について述べている。42節「《朽ちゆくもの》で蒔かれて、…」、44節「《魂的な体》で蒔かれて…魂的な体があるならば…」(「魂的な体」との訳語については原語プシキコスの直訳でドイツ語訳などが採用)。46節「しかし始めにあったのは…むしろ《魂的なもの》であった」(他にIコリ2:14「地上的な人間」)。47節「第一の人間は《地から出て地上的であり》…」(コイコス・地上的は、47、48、49、3回出てくる。この箇所は、創世記2:7「神は地のちりで人を創造なされて」をふまえている)、48、49節「…地上的な人間の性質をもつ者があるように、…私たちが《地上的な》人間の像〔かたち〕を持つたように…」、50節「肉と血は神の国を継ぐことはできない」、53節「この《朽ちゆくもの》、この《死ぬべきもの》」。
 「朽ちゆくもの」(フトラ、前田訳「過ぎゆくもの」)は、本来「滅亡、破滅、衰微」の意味を持つが、ここでは「無常の、腐敗する、移ろう、過ぎゆく、朽ちる」を意味して、50節「朽ちるものは朽ちないものを継ぐことはない」、ロマ1:23「朽ちざる神(の栄光)…朽ちゆく人間」の対比がある。ロマ8:21「被造物は朽ちゆくことの奴隷状態から解放されて、…」。Ⅱペテロ1:4「あなたがたがこの世の欲による《腐敗》を逃れて、神的性質にあずかるため」。ガラ6:8「自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取る」。この「朽ちゆく」は、53節では、ずばり「死ぬべきもの」(他にⅡコリ5:4)と言い換えられて、「地上的な人間の像」(49節)すなわち被造物存在の特徴を示している。
 44節「魂的な」(プシュキコス)は「魂(プシュケー)」の形容詞形。協会訳「肉」との翻訳は不的確。ちなみにシュラーゲの註解も「魂的な」との訳語である。Iコリ2:14「魂的な人間(前田訳「生まれながらの人間」)は神の霊のことを受け入れない」、15:44「魂的な体で蒔かれて…」は《地上的な人間》の意味。「魂的な体があるように」、46節「始めにあったものは魂的なものであった」。「魂的な」との訳語は、なじみがうすいがドイツ語訳などで直訳でこう訳される。50節の「肉と血」はこの魂的なものの言い換えである。
 パウロは被造物としての人間の特徴を「朽ちゆく」「魂的な」「地上的な」「死ぬべき」などの用語を用いて明らかにしている。

被造物的な生命の終わりとしての死についてのバルトの見解
 バルトは、「創造論」Ⅲ/2の最後の部分で(776-790)罪の報い・滅びとしての死ではなく、「別の死の形」《被造物的な生命の限界としての死》について述べている。
 Iテサロニケ5:10「イエス・キリストは私たちのために死にたもうた。それは私たちが覚めている時も眠っている時も、彼と結びっけられて生きるためである」、ロマ8:38「死も生も…私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはない」、ロマ14:8「生きるにしても、死ぬにしても私たちは主のものである」、ピリピ1:20「私が生きるにしても死ぬにしても、私の身をとおして公然とキリストがあがめられることを私は待望し切望している」。ーーこれらの箇所に基づいてバルトは解釈している。ここで生と死が両者に優越するイエス・キリストの支配という観点のもとで並置されている場合、『死』ということでもって、《敵としての武装した強力な死が理解されているのではなく、むしろ人間の生そのものの、近づいてくる終わりが理解されている》。
 バルトによれば、ヨハネ11:25「私は復活であり、生命である。私を信ずる者は『たとえ死んでも』生きる」は、イエス・キリストの復活と生命に人間が与ることに疑いをさしはさまない死が存在することを示している。さらにヨハネ5:24「私の言葉を聞いて、私を遣わされた方を信ずる者は永遠の生命を持ち、裁きを受けることがなく、死から生命に移されている」の箇所を、バルトは『死の中で死が廃止される出来事』として把握している。「この出来事は偶然に基づいて起こるのでも、人間に自由に処理できる可能性に基づいて起こるのでもなく、むしろ神の途方もない関与に基づいて起こるのだ。その具体的な形がイエス・キリストの出現、死、復活である。この事情のもとで《『第二の死』は廃止され》、『不自然な死』からのこの解放は、《他方では永遠の生命への解放であり》、明らかに、《『自然的な』死への人間の解放》をも意味している」。
 《人間の死ぬこと自体は、創造主の秩序に従って、その被造物の生命に属しており、また被造物にとって『必然的』である。アダム的な人間はプシュケー・ゾーサ〔生きた存在、Iコリント15:45〕となるべく創造された。それと共に、自分の時間、ただ自分の時間だけを持つ存在となるべく創造された。…人間の生の意味と目標としての、決定的に人間が神と共存することは、人間の生自体が限定されたもの、限界をもっことを要求している。この限界のところで、人間の味方なる神の決断がくだされた。
 この決断はすでに人間イエスの生の中でくだされた。イエスは神の裁きにご自分で服されて、それと共に神の義と人間の義を再び定めるために、死にたまわなければならなかった。
 ヨハネ12:24「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかしもし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」、バルトは以上のように述べている。