建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ルターの死についての見解-2

2005パンフレット「死の中で神に出会う」-聖書における死についての連続説教-

Ⅲ ルターの死についての見解-2

詩篇90篇講解」
 この講解は、大学でなされた講義録の出版である(1535年、翻訳は1978年に金子晴勇訳が出た)。
 ルターは古今の哲学者たちの「死に対する対処方法」に言及して述べる。古代ギリシャのエピクュロス(前280年ころ、哲学者)について死を軽蔑する立場とルターはみた(周知のようにエピクロスは述べた「死は私たちと何の関わりもない。なぜなら私たちが存在する限り、死はそこに存在しないし、また死が存在する時、私たちはもうそこに存在しないからだ。…食べ飲み踊ろう、死んでしまえば快楽はない」)。この見解に対してルターはこう批判した「死は軽蔑されることによっては克服されるものではない」。他方、ルターはアリストテレスの見解をも批判した。アリストテレスは《死を想う修練》がいつそう死を耐え易くする救済手段であると考えたが、「怒り〔死〕の後に続く生命と憐れみへの希望〔死後の永遠の生命〕がない場合には、「死を想う修練」よりもエピクロスの徒であるほうが明らかによい。このような異教徒の知恵は役にたたない」。
 ルターは、この講義でモーセ〔詩90篇の著者をルターはモーセ自身とみなした〕の職務を「死をきわめて恐るべき色彩でもって描き出し《神の怒りこそ死の根拠である》ことを示す」という。モーセは「死・神の怒り・罪」に対する峻厳なる奉仕者である〔パウロの言葉Ⅱコリント3:6~9「もし文字で石に刻まれた『死の奉仕』が栄光のうちになされるとすれば、『霊の奉仕』ははるかに栄光のうちになされるのではないか」参照〕。
 ルターは続ける「モーセはこの90篇で《死を神の怒り》と呼び、人間の死と禍の生成因と目的因として《怒りの神》をわれわれに対立させて立てている」。しかもモーセは死を「身体的な死」のみならず、われわれが「永遠の死」〔いわゆる第二の死・滅びとしての死〕にも服しているとみなしている、とルターは解釈した。
 ルターは詩90篇の副題「神の人モーセの祈り」に着目していう、死は人を戦慄させて絶望へと導くが、他方そこに生命への希望が残されていることをこの副題「モーセの祈り」は暗示している、と解した。「祈りとは、神のもとには《赦しの可能性》があって、この破滅的不幸〔死〕に対抗する確実な救済策である。死に対決して祈るとは生命を希望することではないか。…モーセはこの詩90篇の副題そのものによって、死に関する恐るべき教えに対抗する救済手段を提示している」。
 死への対抗策として、ルターは90:1「主よ、あなたは幾世代にわたって、私たちの《逃れ場》〔通常の訳語は「住みか」〕であらせられる」の解釈で述べている、「モーセが言わんとしたのは、われわれにとり希望のすべては神のうちにもっとも確実に与えられいているということ、神を逃れ場としてもち、神の尊厳を安全かつ永遠に憩うことのできる住居のように持っているゆえにこそ、神に祈る者はこの世にて重い罰を受けることも、死に至ることもなく、確固として立つであろう、ということである」。
 さてよく知られた90:12「われわれの日の数を知るように教えて、知恵の心により歩ませてください」の講解の中でルターはいう。ここでモーセは、自分たちの死期をあらかじめ告知してくだるように祈っているのではなく、人生がいかに悲惨で禍に満ちたものであるか、無限の歳月の人生が自分に残されているとの空想をしないように、自分の人生には死が待ちかまえていることに熟慮せよ、と勧告している。
 12節冒頭の「主よ」との呼びかけ、かかる神に対する呼びかけそれ自体において、現世を超えた他なる生(それが恵みの下にある生活であれ、神の怒りの下にある生活であれ)が存在していることが告白されている」とルターは解釈した。
 ルターはこの講解において、「われわれが死ぬということは、人間の罪に対する神の耐えがたき怒りから生じている」「神の怒りこそわれわれの死の根拠である」と強調しているが(「詩篇の主題について」)、他方「神の怒りを感じることは呪われるべきものではなく、救いの開始であるとわれわれは確信しなければならない。救いの開始は絶えざる祈りなしには獲得しえないものである」と福音的な解釈をした(「12節の講解」)。
 7節「あなたの怒りによってわれわれは消え失せ、あなたの憤りによって脅かされるから」。ルターはこの7節を詩篇90全体の頂点であるという。モーセは人間と他のものとの相違を、人間のみが罪と神の怒りとが自分の死と結合しているのを感じ取っている、という。人間は罪のゆえに神の怒りにより死をこうむることを知つているのに、どうして人間の本性は「平然たる心をもって死を耐え忍ぶことなどできようか」。そこで人間の理性は神の怒りを回避するために、それを軽蔑する道か、それを冒瀆するかの道をとった。16世紀のオランダの人文主義者、エラスムスは批判した、キリスト教は現世のさまざまな不幸の後に、地獄の業火で人々を脅かしていると。これに対してルターはこのような脅迫的な害悪に対しては不信と発狂以上に適切な救済手段はないと反論した。他方エピキュロスは神の怒りとか、罪の意識から自己を解放するよつに忠告したが、ルターは彼を批判して述べた、エピキュロスは神を知らないだけでなく、自分が現に身に負うている不幸に気づいていないと。
 ルターは続ける、「われわれの死は他のすべての生物の死よりもいつそう恐れるべきである。どんな生物も人間のように《死の恐怖によって苦しめられ》ことはない。…キリスト教徒と神を畏れる人たちは、自己の死が神の怒りに由来することを知っている。したがって彼らは《怒りに燃える神と相まみえて自己の救済を確保すべき組み打ちするよう強いられている》」(「7節講解」)。
 最後によく知られた、ルターの特徴的な死の把握を示す箇所を引用したい。
 律法の声は『生のさ中にあってわれわれは死のうちにある』と安心しきった者たちに不吉な歌をうたって戦慄させる。しかし他方、福音の声は『死のさ中にあってわれわれは生命のつちにある』と歌って力づけてくれる」(「詩篇の表題について」)。
 この箇所はルターの著作の中でもよく知られているが、また他の説教においても、同じニュアンスでこう述べられている、
 「私たちは生のさ中で死の中にいる。それを逆転せよ。私たちは死の中で生命のさ中にいる。キリスト者はそのように語りそのように信じる」(「マリアの帰郷記念説教」引用はユンゲル「死」Ⅳから)。