建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

第四章 辻宣道牧師の問題提起 キリスト者の罪責告白の問題-1

2002パンフレット 「心の内ばかりで信ずることかないません」

第四章 辻宣道牧師の問題提起   キリスト者の罪責告白の問題

 辻宣道牧師(一九三〇~九三、九二年まで日キ教団議長)はその著書「ホーリネス弾圧と私たち」(一九九二)の中で、戦時下ホーリネスの弾圧における問題点を取り上げている(弾圧事件は一九四二・昭和一七年、拙著「宗教者の戦争責任」八七頁以下参照)。辻宣道牧師は、父辻啓蔵牧師(一八九五~一九四五)と(ホーリネス教団の創立者・中田重治の娘)京との間に生まれた。宣道氏が一二才(旧制中学一年)の時、ホーリネス系教団への弾圧が起こり、全国一三四名の牧師らが一斉に検挙された。青森の弘前住吉町教会の牧師であった啓蔵牧師も検挙された。逮捕容疑は治安維持法違反。
 ホーリネス教団では創立者・中田重治が従来より「再臨」を特に重視していた(拙著「キリスト者の希望」第八章で取り上げた)。周知のように、中田牧師、木村清松牧師らは、無教会の内村鑑三と共に、それより二五年以前一九一八・大正八年に再臨運動を全国的に展開していた。この中田の説いた再臨論の内容「キリスト再臨の教義」を官憲は問題にした。「神は近き将来キリストを地上に再臨せしめてわが国を含む世界各国の統治権を摂取せしめ、キリストを統治者、携挙せられたる聖徒を統治に参与する王、神の選民と称するイスラエル人を支配階級となす千年王国なる地上の神の国を建設し、次で新天地と称する神の理想社会を顕現すべきものなりとし、《天皇統治が右千年王国の建設に際して廃止せらるべきものなりとみなす国体を否定すべき内容》のもの」(検事による起訴条文)との嫌疑によるものであった。
 しかも、翌四三年四月、取り調べ、公判中の時期、判決が出る以前に、文部省は宗教団体法を適応、日キ教団は総務局長名で(一)ホーリネス系教会の教職者・牧師職剥奪、(二)ホーリネス系の二七二の教会に解散を通告した。日キ教団は同じ教団仲間に非情な「とかげのしっぼ切り」をやったのだ。
 公判中から辻啓蔵牧師の姿勢は、執行猶予の判決をとりつける「法廷戦術」のゆえか、毅然としたものではなく、転向・棄教を思わせる不甲斐ないものに映った。「狂信的信仰を白紙に返し清算します。キリスト再臨に対して疑いをもちます」。 傍聴席の母京は怒った。
 父が、保釈で帰宅後、自宅で上告趣意書を書いていた。中学生の宣道氏は父の外出中、書きかけの趣意書を読んでしまった。「私は現在においてキリストが神なることは理論上根拠なく、従来の信仰が間違っていることがわかりましたから、これを清算します。…」。中学生の宣道氏には衝撃であった。上告趣意書は本音の転向・棄教であったのか、体力が衰弱していた啓蔵牧師が判決どおり投獄されたら死ぬかもしれぬと考え、それを避けるために《棄教をよそおっての偽りの転向》だったのか。思いめぐらすゆとりも中学生の宣道氏にはなかった。上告は棄却され、啓蔵牧師はまた投獄された(四三年四月)。
 ところが四五年一月、啓蔵牧師獄死、の電報で母と宣道氏は雪の中、弘前から青森刑務所に亡骸を引取にいった。
 「父の遺骸を見た時、私の足は立ちすくんだ。その痩せ方の異常さが私を慄然とさせた。父は大きく目を見開いて死んでいた。これがあの講壇の父のなれのはてか。母は涙もこぼさずにそのまぶたを閉じてやった。父の死骸を火葬場に運ぶ馬橇の中で私は思ったのだ。『もし神様が本当に生きているなら、こんなにひどい、むごたらしい目にあわせはすまい。二〇年間、ただ神様のために働いてきた人じゃないか』。その日以来私という少年はキリスト教と絶縁した」。
 青森の刑務所で獄死した父啓蔵牧師の「転向」を《その死から四七年たった一九九二年の時点》で宣道氏は前掲書で「暴いた」。息子の宣道氏をしてこの暴露を決意させた理由はこうであった。戦時下指導的な神学者桑田秀延氏は、ホーリネス弾圧事件の裁判で、証人としてホーリネスの牧師たちのキリスト再臨論を批判して、被告側に不利な証言をした。桑田氏は戦後東京神学大学で学長をつとめたが、当時の証言への自己検証など(彼らへの神学批判が検察側に利用されることへの防御)全くなかった。同じホーリネスで転向した泉田清一郎牧師も、戦後自らの罪責を明らかにしないまま活動を続けた、すなわち彼らは戦時下の自分の行動から「逃亡した」からだと。辻氏は桑田、泉田両氏を批判した刃を自分の父'啓蔵牧師に向けたのだ。辻氏は述べている
 「私は自分の父を斬らねばなりませんでした。これはじつに辛いことでした。しかし《そこを避けてたら歴史と向きあうことにならない。ここにきて歴史を歪曲することは許されません》」。《先達のキリスト者の罪責を問う》とは罪責ある肉親の父母にも刃を向けて切りつけることだ、と語る辻氏の言葉に私はショックを受け、そして感動した。辻氏のいう「父の転向・棄教を暴いた」とは、殉教者とみなされていた(米田勇「昭和の殉教者」一九六〇など)父啓蔵牧師の隠された罪責、二年の実刑判決を受けた父が、保釈を得るためとはいえ《キリスト教信仰を捨てると上申書に書いた罪責》をこの著書で公表した。この罪責を歴史の明るみにさらすことで、辻氏は父や先達の罪責を担おうとされた。このような先達の、父のかつての罪責をえぐり出し、それを苦悩をもって受けとめ担うことのみが、キリスト者に先達の罪責を克服する力を与え、先達とは違った新しい歴史の歩みが可能となるだ、と私は考えた。

 一九九五年五月、敗戦五〇周年を迎えたドイツのカトリックプロテスタントの教会の代表は合同で罪責告白「言葉」を出した。しかし日キ教団は何の罪責告白も出さなかった。日キ教団は旧約聖書、哀歌五:七の言葉を拒否したのだ。「私たちの父母たちは罪責ある者です。しかし彼らはもういません。それゆえ私たちが父母たちの罪責を担わなくてなりません」をである。辻氏の懸念は的中した。辻氏の言葉をかりれば、戦争責任の罪責告白から「教団はまた逃亡した」のだ。