建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

高木牧師前夜式説教

2001-12

高木幹太牧師  前夜式説教
日付:2001年3月22日

 ホメロスの「オデュセイア」によれば、オデュセウス将軍は、自分の死について「恵まれた老年を送りつつ、老衰して果てることになる」すなわち「すこぶる安らかな死」だと予言者テーレシアスによって予告された、という。これは誰もが願う死に方です。病院の霊安室で、亡くなられた先生の顔を拝見した時、私が受けた印象はアルカイック・スマイル、古拙の微笑でした。この微笑からすれば先生の死は「すこぶる安らかな死」です。
 30年ほど前に亡くなられた三鷹教会の石島三郎牧師について高木先生は、三鷹教会で説教した時、プロテ'スタントの「牧師のあわれな末路」という話をした、石島先生は聞きながら涙をふいておられたと私たちに言っておられた。「恵まれた老年をおくる」とか「安らかな死」とはいえない 晩年が待ち構えている、という高木牧師の言葉に石島牧師も共鳴なさったのでしょう。 私が高木先生の死に接して思い出したのがこの話でした。

 

 19世紀デンマークの思想家キルケゴールは 「主体的真理の証明方法」は自然科学など客観的真理の証明方法、実験などとは違って、その真理、キリスト教信仰、マルクス主義などその真理のために血が流されることによって証明される、と語りました。その真理のために血が流される一つの形が殉教です。聖書は殉教のことをマルチュリア「血の証言」といいます。また殉教とはその真理、その思想のために犬のように殺されること、死ぬことを受け入れることだと評論家・加藤周一氏は語りました。殉教はナチス・ドイツや、秀吉、家康のような宗教弾圧や日本軍国主義国家権力による共産党弾圧の状況、いわばけたたましい状況おいてだけ起きるものではない、と考えられます。
 宗平協で長年活動なさって、 数年前お亡くなりの守谷ホリネス教会の佐々木二郎先生はママすなわち高木幹子(まさこ)夫人が病気で亡くなれた当時「殉教ですね」と家族に語られたそうです。さすがに佐々木先生は本質をずばりと把握しておられた、と感じました。牧師として牧師夫人として長年活動していくなかで、労苦と疲労で身も心もぼろぼろになっていく、,体は病におかされ、 頭脳は痴呆症でぼけてくる(私が教わった清水義樹先生などの晩年)、人間的にみると、敗残のような老後をおくりつつやがて死を迎える。これは殉教のいわば現代的形態です。
 使徒パウロは、第二コリント4:7以下で、論争相手に反論している。論争の相手は「イエスの生命」は自分たち使徒たち、伝道者たちの現時点での力強い働きの中に現われるはずで、力強い活動をなしうることが伝道者の資格であると考えていた。しかしパウロは、伝道者に現われるのは「イエスの生命」ではない、むしろ「イエスの死」のほうなのだと語りました「かくしてイエスの死は「私たち」(使徒、伝道者ら)に働き、イエスの生命は「あなたがた」(教会員)に働くのである」 (第二コリント4:12)。イエスの生命を伝える伝道者には「イエスの死」が伝道者の固有の苦難(例えば労苦や病気、老人性ぼけ)という形で具体化する、と主張している。「イエスの死」は使徒たち伝道者たちに働き、「イエスの生命」はあなたがた、教会員に働く(12節)。地上においては使徒は、伝道者は直接イエスの生命にあずかるのではない、伝道者が、イエスの生命にあずかるのは将来の復活においてである「主イエスをよみがえらせた方、神が、使徒たち、伝道者たちを(将来)よみがらせてくださるであろう」(14節)。その点では、地上では伝道者には「恵まれた人生も、恵まれた老年も存在しない」。
 パウロは伝道者の希望を、将来的な復活においておりますが、私は現在の時点でも明らかな点があると、考えています。それは、伝道者の労苦をキリストが見ていてくださるということです。教会員にはわからないかもしれない、教会役員はイエスの生命が現在牧師の伝道活動に直接現われるはずだという誤解を、コリント教会の論争相手と同様に、してしまうかもしれない。ある場合は伝道者の家族も伝道者を理解できないかもしれない。
 イエスの生命を人々に伝えようとする伝道者に、実はイエスの死が作用して、それが伝道者の心と体と、ある場合には頭脳をもぼろぼろにしていまう、という特有の苦しみ、この苦しみを見ていてくだるのが、キリストです。ですから、もしも老いて身も心も傷ついた伝道者がいたとしたら、その傷ついた伝道者の姿は、イエスの生命を伝えようとしたその伝道者の栄光の姿である、と私たちは考えるべきです。伝道者のその傷ついた姿は、ソリ・デオ・グロリア、神にのみ栄光あれ、を私たちに指し示しているからです。

                                                                      2001年3月23日