建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

終末論ーーパウロ

週報なしー2

日付不明

タイトル:終末論ーーパウロ

 (1)終末論という用語。この用語は「終末、終末の」という意味のギリシャ語「エスカトス」と「論」という意味の用語「ロギア」の合成語、ドイツ語 Eschatologie、英語 escatologyの翻訳語である。
 (2)内容は多様であるが、
 第一に、歴史の領域では「神が歴史を支配する」という独特の歴史観に立ち、人間の歴史は無限に発展し持続するのではなく、神によって歴史(世)の終りがある、と考える。
この終りは第一にキリストの到来と死であり、第二にキリストの到来(再臨)「最後の審判」「救いの完成」の時と考えられている。「現在」は第一の終りと第二の終りとの「間の時」、「時の間」すなわち「中間時」とみなされている。
 第二に、キリスト者の個人の終りの別のありかたは「死」の問題である。キリスト者の死は「すべてのもの終り」なのか「キリストにある新しい存在」への移行なのか、また死人のよみがえりを私たちはどのように考える(信じるか)か、は終末論の重要な問題である。

 

 第三に、「主の再び来たりたもうを我は待ち望む」(使徒信条)、キリストの再臨を現実にどのよつに考えるか、信じるか、はこの終末論の問題である。
 第四に、将来(世の終り)と現在との関連、キリスト者が「すでに」救いに与ったという現実とキリスト者は「いまだ」罪のなかにあって「いまだ」救われていないという現実この「すでに」と「いまだ」のダイナーミックな関連づけの問題。信仰の二律背反と熱狂主義との戦い。
 第四に、キリスト者の「脱世界化」。第一コリ七章。               
 第五に、「上に立つ権力に服従せよ」(ロマ一三章、黙示録一三章)の問題。キリストの王権とこの世の権力との関係。「神の国」の問題、すなわち信仰のテーマを内面の、魂の問題とのみ考えることの誤り。信仰は「神の国の問題」と関わる。その政治性、社会性をもつ。
 第六に、黙示録の終末論の問題、ハルマゲドン、黙示録16:16「不浄の霊は王たちをへブル語でハルマゲドンと呼ばれる場所に召集した」。ハルマゲドンはへブル語の山を意味する「ハル」と地名「メギド」(ガリラヤのナザレの南方二〇キロ)のギリシャ語「マゲドーン」の合成語で、メギドの山を意味するが、イスラエルはカナン侵入時カナン人の連合軍と戦った。士師5:19「もろもろの王たちは来て戦つた。その時カナンの王たちはメギドの水のほとりのタアナクで戦ったた」(前1100年ころ)。メギドは古戦場のイメージがあるので、ここでもハルマゲドンは象徴的意味で、終末時戦争の意味。
 千年王国説、黙示録20:4「彼ら、偶像礼拝をしないで死んだ人々は生き返って、キリストと共に千年の間支配した」。千年がたつとサタンは獄から解放され、諸国民を集め彼らは聖徒たちの陣営と愛されていた都を包囲したが、天から火がくだってきて彼らを焼きつくした、7節以下。キリスト再臨「私はすぐに来る」22:20。ハルマデドン、千年王国説、キリストの再臨は15年戦争中の宗教弾圧において朝鮮、日本双方で「天皇主権とキリストの主権」の問題となった。

パウロの終末論
 新約聖書における終末論は、パウロヨハネ、共観福音書、黙示録のそれなどに区分できるが、そのうちで最も古い文書はパウロの書簡である。そこでパウロにおける終末論を取り上げたい。パウロにおける終末論はむろん彼自身が受け取ったヘレニズム教団の考えによって規定されていた。彼の終末論的世界像はユダヤ教の黙示文学に由来する、例えば「復活」第一コリント15章、「主の日」第一テサ5:2など。「パウロの終末論で根本的に新しいのは、キリストの派遣、十字架の死、復活において、この世から来るべき世への転回が起こったとする認識である」(ボルンカム「パウロ」)。
 (1)「主の来臨の近さ」。第一テサ4:15以下。ここでは、すでに死んだ信仰者の「死後の問題」すなわち「イエスにあって眠った人びと」の復活についてパウロは語つ
ている。「主の来臨の時まで生き残るわたしたちは、(復活において)眠っているより先になることは決してないであろう。主ご自身が、合図と共に、すなわち天使長の声と神のラッパによって、天からおりて来られる」。
 ここではパウロが「生き残る」生きている間に「キリストの来臨・再臨」が起こる、
「主ご自身が天から降りて来られる」とある。この切追した主の来臨という考えがパウロの終末論の特徴の一つである。そしてキリストの来臨において起こる出来事はこうである《まず》死人の復活であり、なおも生きている人々(信仰者)の移行・変容である。
 「キリストにある死人がまずよみがえり、《次に》私たち生き残る者が彼らと共に雲で《移され》、空で主に出会い、かくて《いつまでも主と共にあるであろう》」。
 主の再臨において二つのことが起きる、まず死人の復活が起きる、次に、その時点で生きているパウロらにおいては《移行》が起きる。移行とは場所的に地上的世界から別の世界への移行であるが、存在様式の変容を含む(変容については第一コリ一15:51「変えられる」)、かくして復活した死人らと生きて移された人々との「永遠の救いの状態」
「いつまでも主と共にある」が実現する。
 第一コリント15章51以下「変容」。「私たちすべては眠るのではない(死んだ状態にとどまるのではない)。最後のラッパの折り、たちまち、一瞬にして私たちすべては
《変えられる》であろう。ラッパが鳴るであろう、そして死人らは朽ちないものとして復活させられ、私たちは《変えられる》であろう」。ここではキリストの再臨の時とは特定されていないが、「最後の、終りのラッパの折り」とある。ここでも先の箇所(第一テサ四章)と同じこと「変容」が起こる。この変容は、死人と生きている者双方に起こる。すなわち死人は「朽ちないものによみがえらされる」、他方生きている者「私たちは変えられる」。この変容は「朽ちるものが朽ちないものを着る、この死ぬものが死なないものを着る」こと、地上的存在様式から新しい存在様式への変容である。受け身形は主語が神であることを示す。
 パウロはこのキリストの再臨について重要なことを言っている。第一テサ5:2「主の日は夜の盗人のように来る」。パウロにとってこの箇所は、キリストの再臨がいつかわからないと述べたものではない。もしそうだとすれば、私たち現代人と同じような考えになってしまう。「盗人のように来る」とは、いつかわからない(マタイ24:36)ことばかりでなく、確実に来ること、それもかなり切迫したもの、どれほど先ではあってもせいぜい自分が生きている時に、キリストの再臨があることを言っている
 第一コリ7:29「時は迫っている」、ロマ13:11以下「今は信仰に入った時よりも、私たちの救いは近い。夜は更け日は近づいた」、ピリピ4:5「主は近い」などにおける「救いは近い」「日は近づいた」「主は近い」はいずれもキリストの再臨の近さを述べている。
 地上の権力への審判。パウロユダヤ教の黙示文学の伝統によって、この世の歴史の流れはあらかじめ定められた計画に従って経過していくとみる。これがキリストの復活から
キリストの再臨に至るまで、また敵対的諸権力の滅亡に至るまでの経過である。
 第一コリ15:22以下「しかし(復活には)おのおの、独自の秩序がある。(まず)(復活の)初穂としてのキリスト。次に、キリストの来臨の時、キリストに属す人々(の復活)。それから終末。その時キリストは、すべての支配者(アルカイ)、すべての権力(エクーシア・権威)と力(デュナメイス)とを滅ぼして、み国(バシレイア)を父なる神に渡される。なぜならキリストは『あらゆる敵を足もとに置かれる』(詩110)まで《支配し》なければならないからである。最後の敵として死が滅ぼされる(イザヤ5:8「主は永遠に死を減ぼす」)。キリストは『すべてを足もとに服従させた』(詩9:7)からである。…(28節)すべてがキリストに服従させられた時、御子自身もまた、すべてをキリストに服従させたかた(神)に服従したもうであろう」(コンゼルマンの訳)
 ここは死人のよみがえりばかりでなく、キリストが地上的権力を滅亡させるとある。