建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ハイデルベルク信仰問答 人間の悲惨について

週報なしー3

ハイデルベルク信仰問答 人間の悲惨について

テキスト:テトス3:3~5

 

2問「あなたがこの慰めの中で、祝福された者として生きまた死ぬには、どれだけのことをあなたは知る必要がありますか」

    それは次の三つのことです。すなわち、
    第一には、私の罪と悲惨がどのように大きいかということ。
    第二には、どのようにして私が自分の罪と悲惨から救われるかということ。
    第三には、私がそのような救いに対して、神にどのように感謝すべきかということです」

3問「あなたは、自分の悲惨を何によって知りますか。
   神の律法からです」

 2問と3問とは、関連しているのでつなげて取り上げたい。

 

 2問では、1問における「唯一の慰め」を受けて、「私たちがキリストのものだ」ということを慰めにして生きるには、「ある種の信仰の認識」が必要である、と説く。
 (1)このような「信仰の認識・知識」をもって、当時の信仰的な激動の時期、カトリックプロテスタントとの信仰的な認識の相違・対立の中で、プロテスタントを「理論武装をする」点も信仰問答の大きな役割であった。(2)また、その「信仰の知識」は、そのテーマがどのように秘義に満ちているにしても、非合理的なものではなく、理解可能なものであり、専門家や知的な人ばかりでなく、すべての人にわかるものだ、という前提で説かれている。(3)バルトは、ロマ12:1にある「霊的な礼拝=ロギケー・ラトレイア」に言及する。ここの「ロギケー」は、一般的には「理性的な」と訳されるので、全体は「理性的な神奉仕」となる。この問答書は、信仰者の知識・学びといった「理性的な神奉仕=「理性的な活動」を重視している。それがないと、激動の波に流されるからであろう。
 2問では、唯一の慰めを支えに生きるには三つの「信仰の知識」が必要だという。その第一に、「自分の罪と悲惨がどれほど大きいかを知る必要」が説かれている。この内容は簡単そうであるが、けっこう難しいと思う。そして3問は自分の悲惨を知る手がかりとして「神の律法から・によって知る」と簡単に述べられている。そして「神の律法」については、次の問4によれば、マタイ22:36以下の「神への愛・隣人愛」を指している。結論的にはそうかもしれないが、自分の罪・悲惨を知るには、ふまえるべき点がいくつかある。
 第一に、自分の罪・悲惨を知ることは、「日常的な状況」ではなかなか困難である。人は次の長期休暇を楽しみに今のきつい勉学や仕事に耐える感じで暮らしている。だからこのテーマは日常の意識の流れを超えた、「人生的な状況」で自分をみる必要がある。人生的な眼差しで自分をみた時、人は日常的には隠されている自分の罪・悲惨に気付く。たとえば、漱石の『こころ』にある、普段は善人である人がいざという時に、他者に対してひどいことをする、委ねられていた甥の学費を伯父が遣いこんでしまう例とか。家でモーツアルトなどを楽しそうに聞いている善良な市民が、ナチス強制収容所で何千ものユダヤ人を殺しても何も感じないで平気で暮らしている例など(遠藤周作女の一生・第二部』)。
 第二に、日本人の精神風土という点。これはカトリックやその作家遠藤周作などが問題としている。日本人はひどいことをしても、罪の意識・自覚をもたない奇妙な民族だという見解である。『白い人・黄色い人』(不倫に対して白い人=西洋人は罪の意識を持つが、黄色い人=日本人は持たない)、『海と毒薬』(戦時中、米軍捕虜を生体解剖しても罪の自覚を持たない日本人医師)など。
 第三に、政治的・社会的な側面の罪の自覚として、日本政府・国民は中国、朝鮮、東南アジアに対して、15年にわたる侵略戦争をして、彼らに戦争犯罪を犯し多大な被害を与えたが、それに対する罪の自覚と戦争責任の反省は、現在でもきわめて薄いといえる。むろん、国民としての加害者責任と、政府のそれは区別する必要があるが、国民としての責任がないとはいえない。被害者のほうでは、被害の実態の伝達が教育として子供たちになされているのに、加害者の日本の側の戦争反省にたつ平和教育、被害者の実態についての教育は弱い。そこに、徹底した戦争反省・罪の自覚が希薄であるからだ。つまり被害者の被害の実態が眼前に示されないと、自分たちの犯した罪の認識・自覚ができないとう事実を、この点は明らかにする。
 第五に、社会的な風潮として、平穏無事に暮らしている人にはこのテーマは無関係のように見える。悲惨なこと、愛する人の死、病気などが襲ってきて初めて、人は「人間の悲惨」に気付くこが多い。最近、大きな書店の一コーナーには、必ず「臨死、死の受容、死後の問題、老い」に関するものがある。これは驚きである。
 聖書では、この「悲惨」という語は、名詞「悲惨=タライポーリア」はヤコブ5:1「自分にふりかかる悲惨な目」、ロマ3:16「彼らの道には破壊と悲惨がある」=イザヤ59;7。形容詞「悲惨な=タライポーロス」はロマ7:24 「私はなんという悲惨な人間なのであろう。誰がこの死の体から私を救ってくれるのだろうか。神は感謝すべきかな。それは(むろん)主イエス・キリストをとおしてである」。パウロは、ここで、神の意志に従おうとする自己とそれに従っていない自己との分裂・二律背反を自分の「悲惨」と呼んでいる。
 さて、人間の悲惨について、最も力を入れて語ったのは、パスカル(1623~62)であろう。彼の『パンセ』の第二章は「神なき人間の悲惨」という題で邦訳で55ページほどある。
 「惨めさ。ソロモン(「伝道の書」の著者)とヨブは人間の惨めさを最もよく知り、最もよく語った人である。前者は体験によって快楽のむなしさを知り、後者は苦難の現実を知つた」(174)。「人間の偉大さは、人間が自分の惨めなことを知つている点で偉大である」。「自分の悲惨を知らずに神を知ることは、高慢を生みだす。神を知らずに自分の悲惨を知ることは、絶望を生みだす。イエス・キリストにおいてわれわれは神と自分たちの悲惨とを見いだす」(527)。「キリスト者の神は彼らに自分の悲惨と神の無限の憐れみとを内的に感知させる神である」(556)。
 パスカルがいう「人間の悲惨」とは、人間の本性が腐敗し神のもとから墮落していること(441)をさす。具体的には、やがて死ぬべき人間がそのことを考えまいとして「気を紛らわすこと」に走ったこと、そうはしても死は必ずその人間を飲み込んでしまう現実など、人間のいとなみ全体のこと。
 同じカトリックのシャルル・ぺギー(1873~1914)は、より現実的に「悲惨」を、「もろもろの悲惨、経済的悲惨、貧困、健康的悲惨、もろもろの病気、とりわけ死」と呼んでいる。
 さて、先のパスカルのいう「悲惨」の方向で、テトス3:3は次のように言っている。
「以前には、私たちも無分別で、不従順で、迷っており、さまざまな欲望と快楽の奴隷であり、惡意と嫉みで日を過ごし、人に嫌われ、互いに憎んでいた」。
 「無分別」は、思慮のないこと、宗教的に「無知な」=ロマ1:14、ガラ3:1、「不従順な」は主に神に対して。反対語は「義なる」。「あなたがたはかつては神に不従順であった」=ロマ11:30。「迷って」は、ここでは「過った道に踏み込む」=へブル3:10など。この三つはほんとうの宗教・信仰を知らない人の姿。「さまざまな欲望と快楽の奴隷」における「欲望」は、物欲、肉欲などのこと。「この世的な心使いと富の惑わしとその他いろいろな欲」(マルコ4:19)。「神は彼らをその心の欲望(エピテュミアイ=複数)にまかせ自分の体を互いにはずかしめる汚れにわたされた」(ロマ1:24)では、心情の欲、情欲など包括的な意味。1:26の「恥ずべき情欲(パトス)」では、もっと激しい情熱的な欲望、性欲。「快楽」は酒食への快楽(第二ペテロ2:13)。また「どこからあなたがたの間に闘いや争いが起こるのか。あなたがた肢体の中でたたかう欲(=快楽=ヘードネイス=複数)からではないか」(ヤコブ4:1)。この欲望・快楽の奴隷の姿は、通常には人間の自然なありようとみるが、聖書は人間の罪と悲惨との姿とみなす。「悪意・嫉み」は、第一ペテロ2:1には「あらゆる悪意、偽り、偽善、ねたみ」と罪のリストに入っている。=エペソ4:31(怒り・無慈悲・そしり)。
 さて、このような「人間の罪と悲惨」が「神の律法によって自覚・認識される」という、この信仰問答の見解には、ついていけない面がある。パウロもロマ3:20で「律法によっては罪の認識・自覚があるだけである」と語ったにしてもである。
 というのは、先にパスカルが指摘したように、「神を知らずに自分の罪・悲惨を知ることは絶望を生み出す」にちがいないから。自分の罪。悲惨の自覚・認識には「神の無限の憐れみ」の下で、というのでなければ、つらい感じがするし、また心で反発が生まれるにちがいない。罪が罪として、悲惨が悲惨として指摘され追求されるのではなく、罪は罪のゆるしのもとでのみ、悲惨は悲惨の克服の方向でのみ、心にしみて認識されるのが、福音であると考えたい。
 このようなポイントからテトス3:4以下を読むことができる。
 3:4~5「しかし、私たちの救い主なる神の慈悲(クレストテース)と博愛(ヒィルアントローピア)が現われた時、私たちの義の業によらず、神の憐れみ(エレオス)によって、神は私たちを再生の洗いと聖霊の更新とをとおして、救ってくださった」
 用語的には「慈悲・慈愛=クレストテース」は、他にロマ11:22「神の慈愛と厳しさ」、「主は憐れみ深く恵みに満ちたかた」=ヤコブ5:1。「博愛」は神についてはここのみ。「再生」はかつての罪と悲惨の自己からの完全な解放を、「更新」はその自己が繰り返し新たにされることを言っている。「洗い」は洗礼。
 ここでの「神の慈愛と博愛の出現」は、明らかに「キリストにおける神の恵みの行動」つまりキリストの十字架を意味している。-一ここでは、救われた信仰者は救いの現在から、「かって」=過去の信仰以前の自分の姿=3節が回顧され、人間の罪と悲惨の姿は「神の慈悲・博愛・憐れみのもとで」明らかになる、という構造になっている。「神の慈悲・慈愛があなたを悔い改めに導く」=ロマ2:4方向である。神の慈悲・隣れみが、救いが、人間の罪と悲惨の実相を描きだす、その同時性、相即性が、私たちに安らぎを与える。先のパスカルの言葉は「キリスト者の神は、彼らに自分の悲惨と神の無限の憐れみとを《同時的に》感知させる神である」と読むことができる。そしてこのポイントが、この問2の第二の答え「どのようにして私が自分の罪と悲惨から救われるかということ」、「神の憐れみによって、神は私たちを救ってくださった」である。