建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ハイデルベルク信仰問答 陰府に下り

週報なしー7

陰府に下り

テキスト:詩139:8 

 43問「私たちは 十字架におけるキリストの犠牲と死から、さらにどんな益を受けるのですか。答、それは、キリストの力によって、私たちの古き人がキリストと共に十字架につけられ・殺され・葬られる(ロマ6:6~8、11)という益です。そして、それは、肉の悪しき欲がもはや私たちの中で支配せず(ロマ6:12)、かえって私たち自身をキリストに対する感謝として捧げるためです(ロマ12:1、第二コリ5:17)」。
(ここの説明は省略)
 44問「つづけて(使徒信条に)〈陰府にくだり〉と記してあるのは、なぜですか。
答、それは、私が最大の試練の中にあっても、私の主キリストが、十字架とそれ以前にもキリストの魂において忍ばれた言いがたい不安、痛み、恐れによって私を地獄(陰府)の不安と責苦から救ってくださることを、私が確信するためです」
 ここでの「陰府」は死者の国のこと。「陰府」という用語は、旧約聖書ではシェオールと言い「あなた・神の義は〈忘れの国〉で知られるでしょうか」詩88:12とあるように、陰府は「忘れの国」と呼ばれ、神との絆もなくなり、人びとにも死者が忘れさられると言っている。また陰府は死者の住みかである、詩49:14。さらに陰府は、地獄のような苦しみの比喩的な表現でもあった、詩16:10「あなたは私を陰府に捨ておかれない」、86:13「あなたの慈しみは私の魂を陰府の深い所から救けだされた」。

 

 ハイデルベルク信仰間答では、陰府をドイツ語でへレといい、これは「地獄」をも意味している。
 この陰府や地獄は現代人にはびんとこない考えのようにみえるが、「地獄」となると少し人間存在、歴史に立ち入ってみると、現代でもさまざまに実在するものである。
 現代の世界では「陰府・地獄」は、
 第一に「集団的な死の責苦」という現実として体験された「アウシュヴィッツの地獄、広島の地獄、ベトナムの地獄」など。
 第二に、「地獄は希望のないところ」を意味する。ダンテの「神曲」の地獄篇の冒頭の地獄の門には「ここより入る者は一切の希望を放棄せよ」と書かれている つまり地獄とは希望のないところで、現代人は非日常的に難病、愛する者との死別などによって、また日常的に孤立した生活などで味わっている。フランスの思想家サルトルは「地獄とは他人である」と語った(戯曲「出口なし」)。
 第三に、現代人が体験する地獄とは「個人的な死の不安、恐怖」である。ルターは「私たちは生のさ中に死によって取り巻かれている」と言い切った(むろんルターは続けて「私たちを取り巻く〈死を生命・復活が取り巻いている〉」と付け加えた、前回)。これ一一死に取り・養かれていること一一死の不安が地獄の責苦であるといえる。
 以上3点は、現代人にとって「陰府・地獄」がけして疎遠なものでないことを告げている。それゆえ、44問の答は、含蓄の深いものである。「キリストがその魂において忍ばれた言いがたい不安、痛み、恐れをとおして、私を地獄の(陰府の)不安と責苦(集団的な地獄、希望のない状況、個人的な死の不安)から救ってくださる」。
 他方、ペテロ第一3:19「キリストは、(死の)獄の中の霊ども(死人)をも訪れて福音の宣教をされた」という箇所は、キリストの「陰府に下り」を旧約の義人たちの救いというテーマに解釈して、キリストの勝利に満ちた地獄の征服の方向づけをした。
 しかし、この44問は、この方向にはない。むしろここでは「キリストの陰府に下り」は、答の部分いあるように、一面的にキリストの地獄における不安、痛み、恐れを強調している。そしてキリストのこのような苦しみの体験が同じ体験をする者に真の「慰め」となることを告げている。
 ヘブル2:18「主ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができる」よりは、この44問の答のほうが具体的であり、徹底しているようにも感じられる。「試練」という用語よりも「地獄・地獄の責苦」というほうが、はるかに強い内容であるから。
 旧約聖書ユダヤ教における「神のこの世的な臨在・シェキーナ」、神はこの世の中で地獄の責苦にある民と共におられて同じ苦しみをなさるという思想ーーがいくつかの箇所で認められる。引証聖句の詩139:8には「私が陰府に床をもうけても、あなたはそこにおられます」とある。ここは神の偏在は天にも陰府にも及ぶ、という意味にもとれるが人間の地獄の状況にも神の臨在があって、その者と共にあって、新しい力を与えられる、ともここは解釈できる。なおこの18節には「私が終りだと恩う時にも(絶望の状況にあっても)、私はなおあなたと共におります」新版のへブル語テキスト、ワイザ一訳。関根訳では後半が「あなたは私と共におられます」とあり、人が極限の状況「終りと思う時」も神が共におられる、という。関根訳によれば、これも神のシェキーナである。
 ヨブ記19:25~26にも「私を贖う者は生きておられる。後の日に、彼は必ず(陰府の)ちりの上に立たれる。私の皮が滅ぼされた後、肉のないままで、私は神を見るであろう」とある。ここでも「贖う者」が陰府のちりの上に臨在する、ヨブは、死後、陰府にあって皮(皮膚)も肉もない骨そのものの存在として、この贖い主、神と出会う、との希望をいだいている。これも陰府における神のシェキーナである。神・贖い主は、陰府においでになって正しい者・義人の苦しみを顧みなさり、その者の義を回復されるという思想がここには見られる。
 旧約聖書では、神のシェキーナを実現されたのは、贖い主(へブル語のゴーエール)と呼ばれたが、新約聖書では、メシア、あるいはキリストである。キリストは、見捨てられた人びと、獄に入れられた人びと、孤独な人びと、拷問された人びと、希望のない患者や老人、と共にいたもう。のみならず、キリストは地獄の責にある人びとの仲間であり、ご自身でもそれを体験された。アウシュヴィッツの処刑台の上にも、処刑者と共にキリストの臨在があった、というのが戦後の新しい神学・信抑の立場でもある。「地上の悲惨、絶望と中にあっても、絶望のゆえに心を頑なにするな、キリストの傷をみよ、そこではあなたの地獄は克服されている」(ルター)。神が、キリストが地獄に下りて行く、キリストが私たちが出会う、味わう、地獄の責苦の中で共にいます。このことを信じる者にはキリストが味わいたもうた地獄の責苦が柯よりの慰めとなる。