建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

洗礼論1 霊から生まれる

週報なしー19

霊から生まれる

テキスト:ヨハネ3・1~6 

 (1)今回から2~3回、洗礼について聖書を学びたい。洗礼の起源については、ユダヤ教において「改宗者」に対して洗礼が授けられた。また洗礼者ヨハネの洗礼運動(マタイ3章)はよく知られている。キリスト教の洗礼がどのように成立したかは必ずしも明らかではない。イエスは洗礼を授けることをされなかったが(マタイ28:18参照)、原始教会は初めから洗礼を行なったことは確実である(行伝2:38「イエス・キリストの名によって洗礼を受けなさい」)。

 

 キリスト教会の洗礼は、洗礼者ヨハネのそれに対していくつかの「新しさ」があった。 第一に「主イエスの名による洗礼」(行伝2:38、8:16など)。第二に、洗礼は聖霊の授与と結びついていた(後述)。第三に、洗礼は罪の赦しと結びついていた(行伝2:38、22:16、ロマ6章など)。第四に、洗礼は、キリストの教会の会員になることであった(行伝2:41、キリスト者の「仲間に加わる」、第一コリント12:13キリストと「一つ体となる」)。ーーそこで、私たちは、まず、聖書における洗礼について、ヨハネ3章その他、今回と次回。ハイデルベルク信仰間答における洗礼をその次の回に取り上げたい
 (2)霊から生まれるーーヨハネ3章。
 3:1~2「パリサイ人の中に名をニコデモという一人の人がいた。ユダヤ人の指導者の一人であった。この人が夜イエスのもとに来て言つた『先生(ラビ)、あなたが神から来られた教師であることを私たちは知つています。神が共にいまさないならば、あなたがなさるこれらの徴は誰にもできないからです』」。
 ニコデモは、パリサイ人であり、サンヘドリン(最高法院)の議員である。「指導者・アルコーン」はそのことを示す、他に、7:26、48(「役人」)。ニコデモを、イエスをほめたたえるだけで、イエス服従しようとしない人の典型との解釈(キルケゴールの「キリスト教の修練」)は当たっていないだろう。ニコデモは7:50以下ではイエス逮捕をめぐって律法にのっとった対処を主張しており、特に19:39のイエスの埋葬シーンでは、イエスのために「没薬と沈香を百斤持ってきた」とあるから。ここでも、いわば、ユダヤ教のリーダーでありながら、熱心さから(「夜に」)イエスを訪れている。ニコデモをイエス訪問にかりたてたのは、イエスエルサレムで行なった奇跡・しるしであった(2:23、3:2)。
 2節まででは、ニコデモのイエスへの「問いかけ」は記されていないが、彼はユダヤ教のリーダーの一人として「救い」、ここでは、「神の国・神の支配」についての問いかけをしたのだーー人はどうすれば神の支配(国)に入れるか(マタイ19:16参照)。2節全体はそれについての「間接的な」問いかけとなっている(ブルトマン「注解」)。
 3~4節「イエスは答えて言われた『アーメン、アーメン、私はあなたに言う。誰でも新しく生まれなければ、神の国(支配)を見ることはできない』。ニコデモは言った『人は老いてからどうして生まれることができましょう。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできはしません』」。
 「新しく生まれる」の「新しく・アノーテン」はやや難しい。「上から」という意味があり、3:31「上からくる者はすべてのものの上にある」、19:11「上から賜わるのでなければ・・」。次に「新しく」という意味で、ここと7節「あなたがたは新しく生まれなければならない・・」。神の事柄に関わる場合、この意味となる。
 「生まれる・ゲネーテーナイ」もやや難しい。母による分娩としての「産まれる・受け身形」ではなく、日本語にはないが、「父によって生まれる-受け身形」(英語のbeget,ドイツ語のzeugenなど)のニュアンスである。この「生まれる・ゲネーテーナイ」は、よく知られた詩2:7「おまえは私(神)の息子だ。私は今日、おまえを〈生んだ〉」に出てくる。女による分娩ではなく、神による創造として「生まれる」という意味(行伝13:33、ヘブル1:5)。この用語からみると、「神から生まれた者」という表現も理解できる。ヨハネ1:13、第一ヨハネ2:29。「神から生まれた者はすべて罪を犯さない。神の種(聖霊、神の言葉)がその人に宿っているからである」3:9、「愛する者はすべて神から生まれた者である」4・7、「イエスがキリストであると信じた者は神から生まれた者である」5:1など。ーーそしてこのポイントは、5節以下では別の展開がなされている。
 「神の国(支配)」は、究極の救いのことで、「神のバシレイア」は、共観福音書に多く出てくるが、ヨハネではここと7節にしか出てこない(それゆえこの言葉の古さを示すもの)。「見る」は、旧約聖書的な表現で、「経験する、体験する」という意味。これに対して、5節の「神の国(支配)に入る」は、マルコ9:47、10:15などと同様、救いに与るという意味。ここでの「神の支配を見ることはできない」は、その人がどのような人であれ、「救いから、神の領域から締め出されている」こと(ブルトマン)。同時に、その人自身が、別の人、新しい人になれば、なりさえすれば、救いに入れる、という可能性、予感もまた存在する。したがってこの言葉は勧告であり、問いかけである。
 4節のニコデモの応答は、イエスの言葉「新しく生まれる」を全く誤解している。「老いてから生まれる、再び母の胎に入ってうまれる」との表現で、ニコデモは「母による分娩・人間の身体的誕生・地上的由来」のみを想定しているからである。ニコデモにとっても、すべての人にとっても、人間の領域には「新しく生まれる・生まれ変わる・新生・再生」というものは、存在しえない。
 「生まれ変わる・新生」は、人間の「改良」をではなく、人間が〈新しい由来・起源〉を持つことを意味している(ブルトマン)。
 5~6節「アーメン、アーメン、私はあなたに言う、『水と霊から生まれなければ、誰も神の支配(国)に入ることはできない。肉から生まれる者は肉、霊から生まれる者は霊である』」。
 「水から生まれる」とは何か。ここでの「水」を神による誕生の種としての「天的な.霊的な水」と解釈する人もあるようだが(オデベルク)、一般には「洗礼」とみなし、テトス3:5の「再生(パリゲネシア)の洗い」と関連づけて、「教会の伝承では、生まれ変わり・新生の出来事は洗礼と結びつけられていた」と解釈されている。ただし、ブルトマンはこの「水から」を後の教会の編集句と解釈する。しかし、彼の解釈には、反対が多い(シュリンク、シュナッケンブルクら)。
 「霊から生まれる」は、3節の「新しく生まれる」の言い換えである。この「霊」は地上的な由来に属さないもので、「奇跡的な出来事の力」のことで(エゼキエル11:19、イザヤ44:3)、「霊・プニュマ」は信仰者、教会の存在を根拠づけ支配している神の力(ブルトマン)、「天的・神的領域から由来する、超自然的な誕生の性格」(シュナッケンブルク)を意味する。その点では、霊も、霊から生まれることも、神秘である、といえる。しかしながら、この箇所の「水と霊とから生まれる」は、当然のことながら、両者を結びつけて解釈すべきである。「〈霊から生まれる〉は、具体的には、〈洗礼〉において実現する」と(シュナッケンブルク)。洗礼は、一方では、プロテスタント教会が定めた「礼典」、宗教的な儀式である。他方、その儀式には神的な力、「霊」が作用しそれを受ける者に対して「独特の救いの働きかけ」がある。この働きかけが「霊から生まれる」である。「霊から生まれる」について、いくつか考えたい。
 第一に、神の子らとされる。イエスの洗礼の折りには、「神のみ霊が鳩のように自分の上に下ってくるのをご覧になった。また天から声があって言った『これは私の愛する子、私の心にかなう者である』」(マタイ3:17)という出来事があった。 「ここにある〈霊の顕現〉が今や〈キリストのみ名による洗礼〉をとおして継続されていくのである。この洗礼において神は罪人らを〈み霊によってご自身の子ら〉となされるのである」(シュリンク)。これが「霊から生まれる」ということの意味である。すなわち、洗礼によってキリスト者が「神の子ら」とされるということは、肉親の父とは別に、父なる神を自分の父として持つということ、である。私には父がいなかったので、洗礼の時、これは大きなポイントとなった。
 ドイツの神学者モルトマンは言う「み霊は〈創造する〉のではなく、〈生み出す〉。メシアが神のみ子と呼ばれるのは、結果的に彼の神的な〈母〉としてのみ霊が語られているのである。メシアは父(なる神)とみ霊からこの世に到来した、そして彼の到来をもって神の霊はこの世に住まわれる。まず、その誕生をとおしてのメシア的なみ子において、次に、その新生をとおしての〈神の子ら〉との交わりにおいて(ヨハネ3:6、第一ペテロ1:23)神の霊はこの世に住みたもう。メシア的な神のみ子が〈み霊から〉生まれたということは、人間の新生にとっての希望のしるしである」。ーー私たちは、クリスマスを前にしているが、キリストの「聖霊による誕生の意味」(マタイ1章、ル力2章)を、キリスト者の「み霊による新生・再生」の根拠、実現として理解することができる。キリストの聖霊による誕生とキリスト者の「霊から生まれる」は、このように、強く、深く、関連しているといえる。
 洗礼は、宗教的な儀式、礼典であるが、そこに、このような意味づけーー洗礼を受ける者はその洗礼において、霊から生まれる、キリスト者の新生の出来事であるーーを、聖書と教会はしてきた。目に見えない「霊から生まれる」ことは、目に見える「洗礼」において実現する。これは、私たちにも妥当する。
 「霊から生まれる」の第二のポイントについて。
「霊の働き方」に注目すると、この霊は、神の言葉をとおして働くポイントがある。聖書のみ言葉が霊を媒介し、その器となる。「霊から生まれる」は、「み言葉から生まれる」という形をとるのだ。霊からの新生は、直接的な「霊感」によるのではなく、むしろ、聖書の言葉、預言者、や使徒たちの言葉をとおして、それが読まれること、解釈されること受け入れられること、心の中で、スパークし、心打たれることをとおして、その人を「新しくする」。
 第一ペテロ1:3「神はその豊かな、憐れみにより、私たちを新たに生まれさせ、死人の中からのイエス・キリストの復活によって、生きた希望を与えられた」。
 1:23「あなたがたが新たに生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種、すなわち、神の生きた変わらぬ言葉による」。
 3、23節の「新たに生まれさせる」は、「アナゲンナオー」でここにしか出てこないもの。この「新生」は、神の憐れみによる(3節)ばかりでなく、「朽ちない種。神の言葉をとおして(ディア)」起こる。
 洗礼の中心ポイントの一つが、この霊から新たに生まれる、である。もう一つが、「罪の赦しとしての洗礼、である。これについては次回。