建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

貧しい者(1)

週報なしー21

貧しい者(1)

テキスト:ルカ6:20~21

 洗礼者ヨハネは獄中にあって弟子たちをイエスのもとに派遣してこうたずねさせた「きたるべき方(メシア)はあなたですか、それとも他の人を待つべきでしょうか」。これに対してイエスは答えられた、
 「盲人は見えるようになり、足のなえた人は歩き回り、らい病人は清められ、耳の聞こえない人は聞き、死人は生き返り、《貧しい者は福音を聞かされている》」(マタイ11:2~6)。                                    

 

エスの平野での説教においても「貧しい者への祝福」が語られている。
 「幸いなるかな、(あなたがた)貧しい者たち、神の国はあなたがたのものだからである。幸いなるかな、今飢えている者たち、満腹させられるのはあなたがただからである。幸いなるかな、今泣いている者たち、笑うのはあなたがただからである」(ルカ6:20~21、ジュールマン訳、マタイ5:1以下と並行記事)。
 これらの箇所における「貧しい者」は、どういう意味か。経済的に貧しい者なのか、それとも包括的な意味をもつのか。特定の運動体なのか、貧しい社会的階層なのか。
 貧しい者の解釈の歴史をスッケッチしたい。
 貧しい者の意味を明らかにする場合、眼目は、まず、これまで指摘したイエスが「取税人や罪人」と会食されたこと、彼らは社会的宗教的に疎外されていた人々であって、この貧しい者がそのようなユダヤ教社会で評価されるような、例えば敬虔な人々の集団、階層とは想定できない点である。
 第一に、デイベリウスは貧しい者を「メシア的敬虔主義者たち」と主張したが(「ヤコブ書註解」)(2ページほど省略)どうも納得がいかない。イエスの貧しい者に対する祝福は、ユダヤ教の世界観と断絶する新しさをもっていて、「社会的秩序の転倒への希望」(デイベリウス)をもたらすものであったにちがいない。ところがデイベリウスの主張する「メシア的な敬虔主義者」は、ユダヤ教の「敬度な者たち・アナヴィーム」の伝統に属す人々である。「イエスの時代、ユダヤ教の民衆の中に特定のアナーヴィーム(敬虔な者たち)の集団《田舎で静かに暮らす人》が存在して、彼らはパリサイ人主義や熱狂主義から遠ざかりつつましく律法を守り、終末的希望に生きていた」(ボルンカム「ナザレのイエス」)。この敬虔な者は、律法遵守の点でも、取税人や罪人の集団とは結びつかない。ボルンカムもデイベリウスの見解を不確かな想像と批判している。
 他方デイベリウスの見解で学ぶべき点は、ユダヤ教における終末待望との相違点を明確にする必要があるにしても、イエスの運動が「終末論的な希望の復興」、神の国到来への希望を復興させて貧困に新しいを与えたと指摘した点、またイエスの貧しい者への祝福が「社会的な秩序の転倒を約束した」と主張した点、それゆえ貧しい者への祝福がプロレタリアによる社会変革の問題と関連づけた点である。
 第二に、ローマイヤーの貧しい者の解釈。ここでは貧しい者は《最初のキリスト者》を意味する。「イエスの時代にはアナヴィーム(貧しい者たち)という表現は、社会的な階層ではなく、ガリラヤで広まっていた宗教的な運動、外面的には極めて貧困であるにもかかわらず、神の言葉を頼りにし神の律法を守り、神の約束を待ち望んでいた人々の運動を意味していた。実際イエス自身も最初のガリラヤの帰依者と共にこの運動の中から出現された。《このアナヴィームと同じ名を最初の原始キリスト教の信仰者はもっていた》。貧しい者へのこの祝福の言葉は、この運動を終末論的な教団へと高め、その教団に《貧しい者》の名を与えるようになった」(「マタイ伝註解」)。この解釈では貧しい者がユダヤ教のアナヴィーム、貧しい者・敬度な者との連続性が強調され、イエスのこの祝福のもつ新しさ、ユダヤ教との断絶面が、また先の社会的秩序の転倒の要素も明らかでない。
 第三に、ボルンカムの解釈。
 「イエスが語られた貧しさや卑賤は、いつも根源的な意味をもっている。《貧しい者や不幸な者とはこの世からは何も期待できないで、すべてを神に信頼している人々であり、また神に自分を投げ出して神の前に乞食として生きている人々である》。祝福を受けている人々を結びつけるのは、彼らがこの世の可能性の限界に突き当っていることである。貧乏人はこの世の仕組みに合致しないので、この世にそぐわない。悲しんでいる者(ルカ6:21)はこの世から何の慰めも受けない。屈辱を受けている者(同6:22)この世から価値を認められない。飢えている者、渇いている者(マタイ5:6)は神だけがこの世で彼らに約束する義なくしては生きられない」(「ナザレのイエス」)。
 ボルンカムの解釈における貧しい者は、「神に自分を投げ出す」「すべてを神に期待する」など《ユダヤ教の敬虔な者》としても充分通用する、言い換えると、この解釈のように貧しい者と敬虔な者とを同一視することはできない。この解釈には取税人や罪人らとのイエスの会食という衝撃力がないからである。この解釈では「社会的な秩序の転倒への希望」といった社会的射程も欠けているので、イエスの祝福の新しさも読み取れない。
 第四に、用語の問題。 イザヤ61:1にある「《貧しい者に喜びのおとずれを告げ》」(マタイ11:6)において「貧しい者たち」はへブル語「アナヴィーム」が用いられている。この用語にはいくつかの意味があって、第一に、自分の土地を全く所有していない人の意味での「貧しい者」(レビ19:10、申命15:11)、預言者らが保護しようとした人々、イザヤ3:14では「乏しい者や寡婦」との並行で「貧しい者」、58:7「飢えた者、裸の者」との並行で「貧しい者」。第二に、宗教的な用語法で敬虔な者を指して「悲惨な者、貧しい者」の意味。イザヤ41:17「貧しい者」、49:13「主はその民の貧しい者を憐れまれる」、詩篇9:18、10:9、14:6「主は貧しい者の避け所(希望)」、68:10など。第三に、「従順な、議虚な、柔和な」の意味。詩篇18:28「あなたは《低き》民を救われる」、74:19「あなたに属す《貧しい者》の生命を永遠に忘れないでください」(以上、ゲゼニウス)、ゼカリア9:9のルター訳「見よ、あなたの王はあなたのもとに来る。彼は義人であって救済者、《貧しく》、ろばに乗る」(ここの「貧しく」はマタイ21:5では「プラウス・柔和な」とある)。
 さてこのアナヴィーム(貧しい者たち)を70人訳は「プトーコス」というギリシャ語に翻訳した。プトーコス(貧しい者)は、一般に「貧しい者」を意味してはいない。プトーコスはぎりぎりの生活をしている貧しい者一般(ギリシャ語のぺネース)とは違って、それよりはるかに貧しい者「乞食」「他人の援助を頼みにする赤貧の人」という意味である(バウアーの辞典)。「一人の《赤貧の》寡婦」(マルコ12:42)、「《赤貧の人》はいつもあなたがたと共にいる」(マタイ26:11)、「ご馳走するなら、むしろ《乞食》、身障者、足のなえた人、盲人を招きなさい」(ルカ14:13)、「その金持の門の前に、ラザロという出来物だらけの《乞食》が寝ていた」(ルカ16:20)など。「プトーコス(赤貧の者)は乞食をしなければならないが、ペネース(乏しい者)は働かなければならない」(ハウク、新約聖書神学辞典)。
 第五に、シュテーゲマンは次のようにプトーコス(貧しい者)について語る。
 「このプトーコス(貧しい者)は施しの対象とされ(マタイ19:21)、吹出物の病気をもった乞食(ルカ16:20)、足のきかない身障者で施しを乞う者(使徒行伝3:1以下)、日雇いの者(マタイ20章)、辛苦している者、重荷を負っている者(マタイ11:28)、大道りや路地でたむろしている失業者、幹線道路沿いにいる移住者である」(ルカ14:21以下)(「ナザレのイエス」)。この解釈がすぐれているのは「貧しい者」と敬度な者を同じ者とみない点である。シュテーゲマンに欠落しているのはイエスの祝福された《貧しい者》の意味が経済的にのみ貧しい者と解釈し、貧しい者のもつ《包括的な意味》をふまえない点である。
 マタイ11:6「貧しい者は福音を聞かされている」はイザヤ61:1~3前半からの引用であった。それをみてみたい(70人訳、ルカ4:18以下参照)。
 「主の霊が私に臨み、私に油を注ぎ、《貧しい者》に喜びのおとずれを告げ、《心の砕かれた者》を癒すために、私をお遣しになった。《囚われ人》に解放と《盲人》に視力の回復とを告知し、主の恵みの時と報複の日を告げ、《すべての悲しむ者》を慰め、シオンの悲しみには灰にかえて栄光を、その悲しみには喜びの油を与え、《意気消沈した心》にかえて讚美の姿勢をつくるためである」。
 ここでは《貧しい者》は、経済的貧困ばかりでなく《心の砕かれた者(絶望した者)》《囚われ人》《盲人》《悲しむ者》《意気消沈した者(絶望した者)》を包括する意味をもっている。しかも注日すべきことに、彼らは《決して敬虔な者とはみなされてはいない》。「《貧しい者》はセム語の用語法によれば、金をもっていない者ばかりでなく、包括的な意味で抑圧された者、悲惨な者、隷属している者、屈伏させられた者を意味している。しかし決して特定の敬虔なタイプ、外面的な状況から解放された内面的な貧しい者を意味していない」(ルツ「マタイ伝註解」)。
 「心の砕かれた者」は他にイザヤ57:15、ルカ4:18、にも出ているが、次の動詞「癒す」からみても「謙遜な者」(詩篇51:19での「砕かれた魂」)とは解せない。「絶望した者」の意味である(エレミアス、モルトマン)。「すべての悲しむ者」は、ルカ6:21の「幸いなるかな、《今泣いている者たち》」、マタイ5:4「幸いなるかな、《悲しんでいる者たち》」と密接に関連している。用語的には「悲しむ・ペンテオー」は自分の罪のゆえではなく、むしろ自分たちを圧迫するこの世の惡の力のゆえに悲しむという意味である。イザヤ61:3の「意気消沈している者」は、希望を失った者を指しているが、マタイ5:5「幸いなるかな、《柔和なる者たち》」の「柔和な者・プラウス」に対するローマイヤ一訳「意気消沈している者たち」(塚本訳「踏みつけられてもじっと我慢している者たち」)に出てくる。ルカ4:18の協会訳「打ちひしがれた者」に対するジュールマン訳も「意気消沈した者」とある。
 先のイザヤ61章にあげられた抑圧された人々を、私たちは、貧しい者、絶望した者(心の砕かれた者、囚われ人、身障者、悲しむ者、意気消沈した心)の二つに総括できると思う。
 イエスはこのような人々、貧しい者、絶望した者を「幸いなるかな」と祝福なさった。彼らに「神の恵みの到来」が告知されたのだ。これはイザヤ61章の預言の成就であるばかりではない。ここでイエスは、取税人や罪人らとの会食と同様に、神から遠いと思っている人々に、恵み深い神の到来、接近を告げておられる、また「社会的秩序の転倒への希望」を告知された「主は権力者を位から引きおろし、低い者を高くされ、飢えた者を善きもので満たされ、富める者を空手で追い返される」(ルカ1:51)。その具体的な内容はこれから順次明らかにしていきたい。