建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ひとり児の引き渡し

週報なしー32

ひとり児の引き渡し

テキスト:ヨハネ3:16、17 

 イエス・キリストの誕生については、いろいろな見解がある。例えば、マタイ伝では、生まれた幼な児イエスは「インマヌエル、すなわち神われらと共にいます」のシンボルといわれた(マタイ1:23)。 また東方の博士たちによってみどり児イエスはメシア的な王「ユダヤ人の王としてお生まれになったかたはどこにおられますか」とも呼ばれた(2:2二)。ルカ伝では「今夜、ダビデの町(べツレヘム)に一人の《救い主》がお生れになった」と述べられている(2:11)。
 ヨハネ伝では、イエスの誕生を「神による御子の派遣」と表現している。8:42「私は自分から来たのではなく、神から遣わされて来たのだ」。10:36「父が聖別して世に遣わされた者である(私)」。

 

 パウロは神の愛・アガペーが罪人への愛であり、またイエスの十字架の死において示されたと、述べている「私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自身の愛をあらわされた」(ロマ5:8)。ここでの「罪人」とは生れながらの人間、神を知らない人間という意味である。アリストテレスは、愛(フィリア)というのは、こちらが相手を愛していることをその相手が知つている場合にしか成立しない、と主張した(「倫理学」)。これに対してパウロのいう愛・アガペーは、人間の側がたとえ神を知らなくても、人間が神の愛に気がつかなくても、愛は成立する、と考えている。またパウロは神のこの愛・アガペーは「キリストが私たちのために死なれた」すなわちキリストの十字架における出来事として現われたと述べている。
 ヨハネはこの神の愛の現れは十字架ばかりでなく「御子の派遣」もそうであると語っている。
 「私たちがそのひとり児をとおして生きるようにと、神がその》ひとり児を世に遺わした》ことにおいて、神の愛は私たちのうちに現われた」(ヨハネ第一4:9)。
 「神の愛が御子の派遣において表現されているということは、その言いまわしにも表れている。すなわち《渡される》という言葉と響きあう《引き渡す》という言葉によって表現されている。また御子の特質を《ひとり児》という用語で表現していることにも(神の愛は)示されている」(ブルトマン「新約聖書神学」)。ここの「渡される・パラディドーミ」については「主イエスは渡される夜」(第一コリント11:23)、「主は私たちの罪科のために(死に)渡された」(ロマ4:25)。「ひとり児」についてはヨハネ独特の用語で、この他ヨハネ3:16、18。「何にもまして愛している」という意味である(ブルトマン)。
 ヨハネ3:16、17でも、御子の派遺は神の愛の現われであるという。
 「というのは、神はそのひとり子を《賜つた》ほどにこの世を愛されたからである。これはそのひとり児を信じる者が一人も減びず、永遠の生命を持つことができるためである。神は世を罰するためでなはく、むしろ御子によって世を救うために御子を《遣わされた》のである」(塚本訳)。
 御子の派遣の理由は「神がこのひとり児イエスを《賜る、与える》ほど世を愛された」とある。神の憐れみ深い愛は御子の贈与として世に派遣された、すなわちこの世に御子が誕生したこととして解釈された。しかし、注意深く読んでいくと、この解釈は少し「のんきで平板」である。
 特に「賜る・与える」という用語「デイドーミ」の意味内容は「与える」という意味とは別に「引き渡す」という意味があるからである。
 この用語はいずれも重要な箇所に出てくる。一つは最後の晩餐である。「これ(パン)は、あなたがたのために《引き渡される》私の体である」(ルカ22:19)。協会訳その他ではここは「あなたがたのために《与える》私の体である」となっている。「あなたがたのために引き渡される」の相手はどうみても弟子たちではない。はっきりとは書かれていないが、死、十字架が想定されている。
 もう一つの重要な箇所は「人の子が来たのも、多くの人の贖いとして自分の生命を《引き渡す》ためである」(マタイ20:28、マルコ10:45)。ここでも、「与える」よりも「引き渡す」がよい。イエスがその生命を「引き渡す」相手はどう考えても「弟子たちや多くの人々」を指していない。 しかし「与える」という訳語ではその意味にとれる。イエスが「ご自分の生命を引き渡す」相手は、十字架であり、死である。
「与える」よりも「引き渡す」は見間違えようもなく、イエスの十字架の死を意味していることになる。「この語は原始キリスト教の用語では十字架への引き渡しに対する表現である」(シュナッケンブルクの註解)。
 この用語(ディドーミ)にはこのように「与える」と「引き渡す」と二つの意味があるが「与えるとの訳語」は意味を限りなく弱める、神の愛、キリストの愛の意味合いを弱める結果になってしまう。例えば「キリストは、私たちの罪のためにご自身を《引き渡された》」(ガラテヤ1:4)においては、この意味は明らかだ。
 さて「与える」でなく「引き渡す」という意味に解釈すると、ヨハネの箇所はどうなるか。「神は《ひとり児》を《引き渡される》ほど世を愛されたのである」となる。神は《何にもまして愛している存在を十字架の死に引き渡される》ほど、世すなわち罪ある人々を愛された、という意味になる。そうなると、ここはパウロのいう「神による御子の引き渡し」(ロマ8:32)と同じ意味、十字架のアガペーとしての神の愛を意味する。この箇所の、神による御子の派遺、すなわち、御子の誕生が、人間一般(この世)にひとり児を《与えられる》出来事ではなく、むしろ「御子によって世を救う」、つまり罪深き人間(この世)、私たちの罪の贖いのために、神はひとり児を派遣して《十字架の死に引き渡されようとなさった》ということになる。そうなると御子の派遣、誕生は底の知れない神のアガペー、十字架における愛を示すための神のみ業である、と私たちに告げている。ヨハネ伝は、イエスはその誕生の時点ですでに十字架の死という定めのもとにあったこと、神のアガペーは、罪人の救いのためにひとり児の十字架の死へと引渡すことにおいて示されたこと、を強調しているのである。
 この点を第一ヨハネ4:10はこうしるしている「愛とは、私たちが神を愛したということにではなく、むしろ神が私たちを愛してくださったこと、そして《私たちの罪のための贖いとして御子を遣わされた》ことにある」。ここでははっきりと、御子の派遣、誕生は罪の贖い、すなわち十字架の死と結びつけられている。
 現代の日本では、デパートのクリスマス・セールの鳴らすシングル・ベルやキャロル(クリスマスの祝歌)の中で、あるいは街角のクリスマスツリーのきらめきの中でクリスマス的なムードがやってくるが、クリスマス・ツリーやキャロル(祝歌)の響きのなか、コマーシャリズムキリスト教的文化の中でキリスト者はクリスマスを待つのではない、祝うのではない。むしろヨハネ伝が伝えているように、イエスの誕生において御子を十字架の死に定められた方の御心「御子を信じる者が永遠の生命を持つことができるようになるため」すなわち、ひとり児を十字架に引き渡されようとされる、神の愛の深さをかみしめつつクリスマスを待ち望む、クリスマスを迎えることをあらためて考えたいと恩う。
 今年が敗戦・被爆五〇周年であったこと、アジアの二千万人の死者、三一〇万の日本の死者、多くの被爆者。阪神大震災の被害者、オウム真理教の地下鉄サリン殺害事件の被害者、米軍の基地での事件の被害者や沖縄の人々の苦しみと怒り、宗教法人法改正間題における苦闘などなど、現在における多くの苦しみを見つめ、その苦しみとの何らかの関与をする方向づけ、ひとり児を十字架に引き渡される神の愛をかみしめつつというのは、 このようなことが含まれている。