建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

聖霊降臨

週報なしー9

聖霊降臨

テキスト:使徒行伝2:5~13

 5~13節「さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々からきた誠実なユダヤ人、信仰深い人々がいた。しかし、この物音がした時、大勢の人が集まってきた。そしてびっくりした。キリスト者たちがそれぞれあらゆる国々の言葉で語っているのを聞いたからである。彼らは驚きあきれて言った、『見よ、話しているこの人たちはみなガリラヤ人ではないか。それなのに、どうして私たちは、彼らがそれぞれ私たちが生まれた故郷の国語で話すのを聞くのであろう。私たちは、パルチア人、メジア人、エラム人、また、メソポタミアユダヤ、カパドキア、ポントと小アジア、フルギアとパンフリア、エジプトとクレネに近いリビアの地方に住んでいる者、そして、ここに仮住いしているローマ人ユダヤ人と改宗者クレテ人とアラビア人であるーーその私たちは、あの人たちが私たちの言葉で神の大いなるみ業を話すのを聞くとは!』
 彼らはあっけにとられ、途方にくれた。そして、ある人は他の人に言った、『これはいったいどういうことだろう』。また他の人々は、嘲弄して言った、『あの人たちは新酒に酔っているのだ』」

 

 ここで、シーンは家の中から外へと変わる。「物音」ーー2節の「ごうごういう音」か、霊自体の音か、キリスト者の話す声か、ーーを聞きつけて大勢の人が集まってきた。そして、キリスト者たちが、それぞれ、自分たちの国の「国語=ディアレクトス」で、つまりさまざまな国の言葉で、話しているのを聞いて驚きあきれた。7節の「この人たちはみなガリラヤ人ではないか」は、弟子=使徒たちは、ガリラヤ人であって、このような外国語を学んだはずがない、という意味。したがって、キリスト者が話した外国語はいわゆる「霊の言葉」(これまでにそういう解釈があった)ではなかった。もしそうなら、人々が驚くことはなかったろうから。これは、「言葉の奇跡」である。
 9節から、いわゆるディアスポラ(散らされた)ユダヤ人の生まれた国々のリストが出てくる。パルテア人は、当時、ローマ帝国の東の国境に攻撃していたことで知られていた。「メディア人とエラム人」は、聖書からとられたらしい。共に、イザヤ21:2に出ている。メディアはペルシャ帝国を建てたキロス王に滅ぼされた国、エラムは昔のペルシャの北部、ゴルフ。二つとも過去のものであるが、この二つが取り上げられたのは、福音の伝道が「地の果てまで」及ぶ(1:8)ことを強調するためである。メソポタミアは、シリアの東部ぐらいで、必ずしも、ペルシャの地方でない(地図)。ポントは黒海の南。アクラとプリスキラはここの出身(18:2、ローマ教会の創立者)。カバドキアはその南、トルコ東部小アジア、フルギア、パンフィリアはトルコ西部。エジプトはアポロの故郷(18:42)。クレネは北アフリカ、シモン(マタイ27:32)、ルキオ(13:1)の出身地。ローマ人は、むろんローマで生まれたユダヤ人で、今は外国人としてエルサレムにいる。母国語はラテン語である。
 11節のユダヤ人と改宗者は、他の国の言葉を話すグループとしてではなく、宗教的な所属を言っている。「改宗者」は、13:43、16:14以下などにも出てくる。クレテ人とアラビア人とは後から付加されたようだ。この二つとユダヤを除くと、上のリストは12の国民(国語)になる。
 12節と13節には、この出来事に「みなあっけにとられ、途方にくれた」が、その内、反応が違う二つのグループが述べられている。彼らは外国語がわからないので、何が何だかわからない。この二つのグループの対比は、他にも出てくるーー5:34以下では、ペテロらに対する最高法院の人々、ペテロらに好意的なガマリエルと他の人々、14:4、17:18以下など。ここでは、一つのグループは、この言葉の奇跡の原因がわからないで、ろうばいしている人々で、キリスト者に好意的だが、信じるには至っていない人々。もう一つは、キリスト者に敵対的なグループで、外国語が理解できないので「新酒に酔っている」と断定した。
 このペンテコステ、すなわち、聖霊の降臨によって、ルカは何を述べているのだろうか。
 例えば、この出来事は、創世記11章にあるバベルの塔の話ーー「神がそこで全地の言葉を混乱された」(11:9)ーーをふまえて、神の恵みは、この言葉の混乱を再び廃絶して、各々の国の人々が、この霊の降臨によって新しい言葉を与えられて、今より一つ声で神を賛美できるようになった、それがこの出来事だという解釈がある(フランスのトロクメのもの、ヘンヘンの注解)。この解釈は少しずれている。ここでは、使徒たちは、「それぞれの生まれ故郷の国語」(2:8)で語った、つまり、「言葉の混乱」はここに存在するから。また、このペンテコステを「キリストの霊は分裂した人類を一つに統一する」出来事とみる解釈があるが、これもずれている。というのは、この出来事では、まだ異邦人には「霊の降臨」が起こらないからである(10:9以下で異邦人問題は取り上げられる)。行伝では、伝道はまずエルサレムの「ユダヤ人」に向けられる。言い換えると、ペンテコステエルサレムユダヤ人、ユダヤキリスト者にのみ起こったもの、霊の力を示したものである。この出来事(ペンテコステ)は、復活のイエスが弟子たちと別れた後、最も重要な事件ーー霊の到来である。ペンテコステをそれ以前の事柄と結びつけるとすれば、復活のイエスの顕現における「霊の吹きかけ」の行為である。
 ヨハネ20:21~22「(復活の)イエスは第子たちに言われた、『安かれ、父が私をおつかわしになったように、私もあなたがたをつかわす』。そう言って、イエスは彼らに《息を吹きかけて=エンフサオー》、おおせになった。『聖霊を受けよ・・・』」。
 神は人間の創造の時、「人間の鼻に《息を吹きかけられた》。そこで人間は生きた者になった」創世2:7。それと同様に、ここでは、復活のイエスが弟子たちに《息=聖霊を吹き掛けられた》ことによって、新しい人間が創造される。日付的には、復活の日から40日間、復活のイエスは地上にあったが、その後昇天なされ、その10日の後(復活から50日目)にこのペンテコステが起こったことになる。
 ルカ自身のペンテコステの解釈は2:14以下のペテロの説教において展開されている。ヨベルの預言の成就という解釈である(2:16)。
 このペンテコステの箇所では、第一のポイント(2:1~4)、火のような舌がキリスト者にとどまって、彼らがさまざまな外国語を話した、というポイントから、第二のポイント、それに対するエルサレムの諸外国から来ていたユダヤ人たちの反応に(2:5以下)、重点は移っている。
 霊の降臨によってキリスト者がさまざまな外国語を話したことの目撃者、聞き手は、エルサレムに五旬節を祝いに来た「巡礼」(一週間後にはまた故郷に帰る人々)ではなく、むしろ「ディアスポラユダヤ人」で、彼らはエルサレムに移住したエルサレムの住人であって、彼らの中から3000人のキリスト者が生まれた(2:42)のだ。彼らは天からの霊がキリスト者たちの家に下った物音に誘われて、キリスト者のいる家に集まってきた。9節以下の諸国のリストは、彼らが全世界の国々の出身のユダヤ人の代表者であることを告げている。彼らの存在は、この聖霊の降臨が、けしてキリスト者の「内面的な体験」ではなく、むしろ、すぐれて客観的な出来事であることを確認させるものである。彼らの一部は(「人々」2:37)はべテロの説教に聞き入り悔い改めをなした。
 さらに、聖霊を授けられることは、ヨハネ20:19以下によれば、イエスによる派遣の事柄でもある。この派遣は明らかに福音「悔い改めがエルサレムから始まって諸国民に宣べ伝られる」(ルカ24:47)、つまり「エルサレム伝道」の開始を意味する。使徒たち、キリスト者たちは、このペンテコステの後、はじめて、「外の人々」に向かって伝道を開始する。これが2:14以下のペテロの説教である。