建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

トマス

週報なしー42

タイトル:トマス

テキスト:ヨハネ20:24~25

 20:24~25「十二人の一人、双子と呼ばれたトマスは、イエスが来られたとき、みんなと一緒にいなかった。他の弟子たちが彼にいった『私たちは主に出会った』。ところがトマスは弟子たちに抗弁した『私は主の手の釘の跡を見なければ 私の指をその釘の場所に手を主の脇腹に差し入れなければ、私は信じない』」。

 

 この箇所は他の福音書にでてこない。この箇所においては、トマスとべテロら他の弟子たちとの相違点が際立っている。まずイエスの復活顕現の時、トマスだけはそこに居合わせなかったこと。次に、弟子たちが復活のイエスを信じた根拠は、イエスの手と脇腹の「傷の提示。目撃」によってであった(20節)。これに対して、トマスがイエスの復活を信じる条件として出したのは「主の手と脇の傷の目撃」ばかりではなく「傷への接触」であった。トマスは他の弟子たちよりはるかに強い懐疑主義者である。そしてこのトマスの懐疑はべテロら弟子たちよりも「後の世代に属す信仰者の問題意識」でもあった。弟子たちにおいては復活を信じることはイエスの復活の顕現に出会う、見ることによって実現した。この復活顕現は二、三年後に起こったパウロにも起きたが、それ以後の顕現の報告はみられない。後の世代のキリスト者には復活の顕現は起きない。顕現に出会えないキリスト者にとってイエスの復活に対する信仰(この信仰は、キリスト者自身の将来的復活を信じるかどうかというテーマにもなるのだが)はどのようにして実現するか、これがトマスのテーマである。トマスはとにかく25節で、復活者がイエスであるとの現実性と同一性とに対する確固たる「証拠」を要求している。
 26~27「八日の後、弟子たちはまた家の中にいた。そしてトマスも彼らと一緒であった。戸に鍵がかかっていたが、イエスが入って来られて彼らの真ん中に進み出て言われた『ごきげんよう』。それからトマスに言われた『指をここにおいて私の手(の傷)を見てみなさい。手をもってきて私の脇腹に差し入れてみなさい。そして不信仰になってはいけない、むしろ信仰深くありなさい』」
 二六節の「八日後」は弟子たちへのイエスの顕現の一週間後の意味。キリスト教の意味での、弟子たちの聖餐式的食事の折りであったかどうかは、明らかではない。しかし19節にあった「ユダヤ人への恐れ」は最早述べられていない。戸の鍵、復活のイエスが忽然として出現し、弟子たちの真ん中に進み出たこと、挨拶などは同一であるが、前回の出現とはトマスがそこにいた点が強調され、復活のイエスは直ちに、トマスに語りかけられた点は異なる。イエスがトマスに語られた内容は、25節のトマスの言葉と同一である。イエスの指示は、手の傷を「見なさい」、脇腹に「手を差し入れなさい」との「接触」の指示はトマスの「要求」をそのまま受け入れているが、27節後半でトマスの要求自体を強く批判するものとなっている。トマスは25節で、復活のイエスの手の傷を「見ること」脇腹の傷に「触れること」がなければ、イエスの復活を「私は信じない」といった。トマスの要求は、他の弟子たちの場合の「主(あるいは主の傷跡)を見て、喜んだ」二〇節よりも、はるかに多様の復活の「証拠づけ」を求め、かつその証拠なしには復活顕現を信じないと主張した。しかしイエスご自身は、この証拠の要求を「不信仰になってはならない」と批判なさった。「信仰深くありなさい」は、同じ論理をいっている。「証拠があるから信じる」というのは、信仰の世界の行動ではなく、科学の世界の行動である、それゆえに「信じるための証拠を求めること」は科学の世界の行動ではあっても、信仰の世界では「不信仰」となる。「信仰深くあれ」は証拠なく信じることである。
 28~29「トマスはイエスに答えて言った『わが主よ、わが神よ』。イエスはトマスに言われた『あなたは私を見たから私を信じたのか。幸いなのは、見ないでしかも信じる人々である』」。
 トマスがイエスの復活を信じたその仕方は、イエスの手と脇の傷を「見た」からであって傷に触れたからではない。端的に言えば「イエス(の傷)を見たので、イエス(の復活)を信じた」ということである、29節。トマスがイエスの傷に触れたとは述べられていない、すなわち他の弟子たちと同じ信じ方であった。
 トマスの告白「わが主よ、わが神よ」は、口調としては、詩篇34:23「わが神、わが主よ」七〇人訳その他と同一であるが、内容的には「神」について告白されたものではなく、特に「主・キュリオス」は復活と高挙のイエスの称号とされた、ピリピ2:11「イエス・キリストは主である」ものであるから、イエスの復活への信仰に導かれたことがわかる。トマスの告白はマグダラのマリアの復活者への呼び掛け「ラブニ・先生」などよりも、真のものである。トマスは復活のイエスをとおして復活を疑うこと「不信仰」から「信仰深くあること」へと導かれた。
 29節において、復活のイエスは、二つのポイントを指摘んさる。一つは「復活のイエスを《見たから信じる》という復活への信仰の形」である。これはすべての復活信仰の形であり、同時に復活顕現に出会った人々、第一世代の人、マグダラのマリア、ペテロら弟子たち、パウロなど五〇〇人以上の人々(第一コリ15:6)の場合である。復活のイエスはむろんこの信仰形態を肯定される。しかしながら、もし復活への信仰が、復活のイエスの顕現に直接的に出会うこと(この顕現はパウロによれば「見られた、目撃された、現われた」同15:5以下で六回と定形的表現がされているが)によって「のみ」成立するのだとすれば、次の世代、もっと後の世代、現代のキリスト者には、復活への信仰は成立しなくなる。復活頭現はせいぜいパウロあたりまでである、イエスの死と復活の三年後くらいでその後には頭現は起きないからである。トマスのテーマには明らかにこのような問題意識が働いている。では、顕現に直接出会うことの「ない」後の世代においては、復活への信仰はどのように成立するのか。この問題に復活のイエスは答えを出しておられる。
 「幸いなのは、見ないでしかも信じる人々である」。「見ないで」というのは、一般的には信じるに値する「証拠なしに」という意味である。ヘブル11:1「信仰は目に見えないものを確証すること」。ここでは、復活のイエスを「見ないで、目撃しないで」という意味である。顕現に出会うことなくしてイエスの復活を信じること、このことが「幸いである」イエスの祝福を受けるという。「見て信じる、見ないで信じる対比」は、ヨハネ14:10以下にもある、「見て信じる」は20:8。後の世代がどのようにしてイエスの復活を信じるか「見ないで信じる」については具体的に記されていないが、19:35「実際目で見た者がこのことを証言している。そしてその証言は真実である」、15:26以下「助け主が私について証言しよう。そしてあなたがたも証言しよう」が重要である。後の世代のキリスト者は、復活顕現に出会うことなくして復活への信仰に導かれる。それは使徒たちの「証言」、聖書の言葉の「証言」によってである。そしてそのような信仰形態は顕現にであった人々の復活への信仰より幸いである、祝福されたものである、とある。