建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

敵を愛せ(1) マタイ5:43~48

週報なしー12

敵を愛せ(1) マタイ5:43~48 

 「『あなたはあなたの隣人を愛し』、あなたの敵を憎むべきである、と言われたのをあなたがたは聞いてきた。
しかし、私はあなたがたに言う、
あなたがたの敵を愛し、あなたがたの迫害者のために執り成しの祈りをしなさい。それはあなたがたが、天にいますあなたがたの父の子となるためである。
天の父は、悪い者と善い者との上に太陽を昇らせ、また正しい者と正しくない者とに雨を降らせたもうからである。
あなたがたが自分たちを愛する者を愛したにしても、一体どんなほうびをもらえようか。取税人たちでさえ同じことをなしているではないか。
あなたがたが自分たちの兄弟にあいさつしたにしても、一体どんな特別なことをしたことになるのだろうか。異邦人でさえ同じことをなしているではなうか。
それゆえ、天にいますあなたがたの父が完全でいたもうように、あなたがたは完全にありなさい」

 「敵を愛せ」という戒めは、キリスト教の中心的な箇所である。
 43節の「隣人を愛せ」は、レビ19:18「あなたはあなた自身のように、あなたの隣人を愛さなければならない」、これはマタイ22:39でも展開されている。また異邦人の寄留者への愛についてもレビ19:34「あなたがたと共にいる寄留の他国人を、あなたがたと同じ国に生まれた者のようにし、あなたがた自身のように彼らを愛さなければならない」(=申命10;19)とある。
 「敵を憎め」については、旧約聖書の箇所はない。いわゆる「復警の詩篇」には敵についてこうある、「主よ、私はあなたを憎む者を憎み、あなたに逆らって起こり立つ者をいとうではありませんか。私は彼らを憎み、彼らを私の敵と思います」。他に137:7以下。他方、個人的な敵サウルに対するダビデの「惡に対して善で報いた」行為をサウルはほ誉めている。サムエル上24:19以下。さらに出エジ23:4以下では「敵、敵対者」の迷い出た家畜を返してやれと勧告されており、蔵言25:21には「もしあなたの仇が飢えているならば、パンを与えて食べさせ、もし渇いているならば水を与えて飲ませよ」というよく知られた教えがある。旧約聖書においては一貫した「敵を憎め」との見解は存在しないといえる。
 ユダヤ教においては、特にクムラン教団(イエスの時代の荒野のユダヤ教修道院)においては、「神が選ばれたすべての者を愛し、神が拒まれたすべての者を憎め、…すべての光の子ら(教団の仲間)を愛し、すべての闇の子らを憎め」(「宗規要覧」、シュタウファー「イエスの使信」)。すなわち同じ教団の同胞や仲間への愛だけに《愛は制限されていた》。「おのおのは自分の《兄弟》を自分自身のように愛さなければならない」(「ダマスコ文書」)における「兄弟」、また「おのおのは聖なる共同体の中で隣人、永遠の群れの子らと共にいる」(「宗規要覧」)における「隣人」は、自明のように「同じ仲間の修道士」を指していた。つまり徹底的に「愛は制限づけられていた」のだ。
 他方、クムランにおいては「敵への憎しみ」は自明のように前提とされていた。彼らにとって「敵」とは、教団の部外者、教団の敵対者、修道士の迫害者らである。「敵への憎しみ」は彼らの「呪いの祈り」という儀式の中で増幅された、「おまえの業は暗いゆえにおまえは憐れみを受けることなく、呪われよ。永劫の火の地獄で呪われよ。神がおまえを恵まれないように。おまえの罪を贖っておまえを赦さないように。怒りのみ顔をあげられておまえに仇を返されるように」(「宗規要覧」)。
 したがって、 43節は旧約聖書とではなく、ユダヤ教の見解、その例としての、クムランの立場、教団仲間への隣人愛と敵対者への憎しみをふまえたものといえる、「…と言われてきたことをあなたがたは聞いてきた」。
 レビの先の箇所についての「ユダヤ教の解釈」では「敵は異邦人」(47節参照)(ルツ)、   「偶像礼拝者」(シュタウフアー)であった。「隣人」を民族的・集団的にとるか個人的にとるかで「敵」の意味もが個人的か民族的かに分かれてくる。エレミアスは「敵」を民族的でなく、個人的な敵と解釈する。しかしここでの「敵・エクトュロス」は民族的、個人的を包括する意味をもつ(ルツ)。エレミアスは「あなたの敵を憎め」を「あなたの敵を愛する必要がない」の意味に解釈するが、この翻訳は無理のようだ。
 44節の「敵を愛せ」は、キリスト教の中心的戒めであるばかりでなく、キリスト教の新しいもの、特質である。この教えは「キリスト教が行為の宗教である」ことを示す決定的な点であった。といのは「愛・アガペー」は第一義的には、友好的な感情ではなく、具体的な行為と考えられているからである。先の歳言25章にあるように飢えた敵に対して飲食させるとか。ルカ10章のよきサマリア人の行動(ルカ10:34)とか。
 さて、宗教史的、哲学史的には「愛敵の教え」は存在したようだ(シュタウファー)。
 エジプトの賢者アヒカルの蔵言「わが子よ、あなたの敵が悪をもってあなたに接してもあなたは善をもって彼に接せよ」。老子(前550年ころ)「敵意には愛もって報いよ」。ヨセフス(後100年ころ)「征服された敵をも親切に扱え」、ローマ時代のストア派の哲学者、セネカマルクス・アウレリウス、「私たちに惡をなした人々を愛することは、人間としての特別の課題である」(「自省録」)。さらに先の旧約聖書の歳言25:21など。しかし、44節のイエスの戒めはこれらと異なる点がある。
 第一に、イエスの言葉は、多くの発言のうちの一つということではなく、その中心に位置づけられる点。第二に、この戒めは道徳的勧告ではなく、神という見解と関連づけられている。45節以下。 「イエスは、歴史の中でただ一度限り行動なさる、人格的な神を知っておられた。その戒めはこの世の調和とではなく、むしろ神の御心と対応するものだ。敵への愛という途方もない要求は、罪人や零落した人々に対する神の国の到来において示された、途方もない神の愛の特別のものである」(ルツ)。神の国の到来と愛敵の戒めを結合するこの指摘は重要である。神の国の到来は、罪人に対する神の慈悲深い接近の開始であり、それはイエスの罪人との食卓の交わり、マタイ11:19、ルカ15章の放蕩息子の喩などに示された。そこでは神の限りない慈悲の体験、「惡人、正しくない者」(45節)への終わりなき神の忍耐の体験、がなされ、いわばその体験が、敵への愛の源泉となる(エレミアス)。イエスの愛敵の成めは、クムラン教団にみられた愛の対象を仲間にのみ制限する方向とは真っ向から対立する。愛敵は、愛の対象の制限に対する激しい批判すなわち対立命題である。それは、神の慈悲の「限りなさ」に依拠している。敵と私たちは直接対峙する(クムラン)のではなく、間に神が立ちたもうて、私たちは神の前で、敵と対峙することになったのである。
 「迫害者のために執り成しの祈りをせよ」44節後半。イエスは、敵への愛を、よきサマリア人ユダヤ人にとって、宗教的民族的に対立関係にあった)の喩でも展開された。ルカ10章。さらにルカ23:34によれば、自分を十字架につけた人々、ユダヤ最高法院、ピラト、処刑執行者「迫害者のための執り成しの祈り」をイエスはされた。
 キリスト教の殉教者たちも、迫害者への執り成しの祈りをした。ステパノ、行伝7:60。主の兄弟ヤコブも殉教の時にこう祈った「主よ、神よ、父よ、お願いです、彼らを赦してください。彼らは自分のしていることがわからないからです」(エウセビウス「教会史」、シュタウファー)。殉教者のポリカフス(69-155、スミルナの監督)「あなたがたを追害し憎む者たちのためにも、十字架の敵のためにも祈りなさい」(「ポリカフス殉教伝」、シュタウファー)。つづく。