建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

山上の変容  マタイ17:1以下

週報なしー14

山上の変容  マタイ17:1以下

 1~2「そして6日の後、イエスはべテロとヤコブとその兄弟ヨハネを連れ、彼らだけで高い山に登られた。すると彼らの前でイエスの姿が変わった。その顔は太陽のように輝き、着物も光のように白くなった」。
 この箇所全体は、出エジプト24:12~18でのシナイ山における神のモーセに対する啓示をふまえている。ここの「6日の後」は、「主は7日目に雲の中からモーセを呼ばれた」(出エジ24:16)を、「高い山」は「モーは山に登った」(同24:12、15)をふまえている。マタイ伝では山はいつも、神の啓示の場所である(5:1以下、山上の垂訓、28章の復活の顕現など)。
 イエスに同伴しているのは、ペテロ、ヤコブヨハネの三人のみで、彼らの弟子の中での指導的な立場を暗示している(この他、26:37ゲッセマネ)。
 「イエスの姿が変わった」の「変わる=メタモルフォオー」は、姿が変わる、変貌する、という意味。この用語は、第二コリント3:17では、「私たちは・・・主と同じ姿に変えられるであろう」とあって、キリストの来臨の時点での「キリスト者の変容」の意味で出てくる。ここでのイエスの変容が突然であったこと、また、変容を際立たせるために、その変容が「太陽のように輝いた」といっている。この輝きは、明らかに、神の栄光のしるしであって、黙示文学的な象徴と結びついている。
 それによれば、復活の時義人たちは太陽のように輝く、という。「(復活した)賢者は大空のように輝く」ダニエル12:3、「その時、聖者たちと選民たちに変化が起こり、日の光が彼らの上にとどまる」エチオピア・エノク50:1、104:2。「その後彼ら(至高者の道を守った人々)は朽ちないものとされて、彼らの顔は太陽のように輝く」第四エズラ7:97など。さらに、マタイ13:43「その時(世の終わりの時)、義人たちは父のみ国で太陽のように輝くであろう」。
 ここでの変貌は、イエスの将来的な栄光を示唆するものである。先にあげた例は、いずれも、将来の出来事として語られたが、ここでは、イエスの変容が「今ここで」、三人の弟子たちに「目撃された」という点が異なる。その点でむろん、これは「神の顕現」を述べたものである。
 3節「すると、見よ、彼らにモーセとエリアが現われた、二人はイエスと話していた」
「現われた=オプテー」は、ある種の「幻視」が想定されている。また、モーセが先でエリアが後という順番は、ユダヤ教では、預言者よりもトーラ(律法)が高く評価されたからだという。
 「二人はイエスと話した」は「言葉なき対話」で、これは先の「幻視」の性格を示している(ザント)。幻視というのは、幻覚を見ることではなく、ある人には見えるが、ある人には見えない信仰の現象のことで、科学的には証明できないが、そうかといって、その現象を「存在しないもの」と断定もできない現象(オットー「聖なるもの」)。行伝9章のパウロの回心のシーンで、彼に「見えた天からの光」は、同行者には見えなかった、そういう現象(9:7)。
 4節「ペテロはイエスに向かって言った『主よ、私たちがここにいるのは、すばらしいことです。もしおさしつかえなければ、私がここに小屋(幕屋)を三つつくりましょう。一つはあなたのために一つはモーセのために、一つはエリアのために』」
 ペテロは、この出来事を、三人の弟子たちが三人の、すでに(天に)移された(しかも今はここにいる)人物と共にいることが「よいこと」、適切である、という意味で理解し、解釈した。
 「小屋=スケーナ」は、旧約に出てくる「幕屋」のこと。ここでは神とイスラエルとの「会見の幕屋」が想定されている(出エジ33:9、11)。それゆえ、幕屋は神の栄光の現臨を示している。幕屋を造ることで、この出会いと話し合いがもっと続くようにとのペテロの願望が込められている。
 しかし、ペテロの願望は非現実的であり、彼の無理解を表している。というのは、イエスにとっては、神の栄光の現臨の中に留まることは、いまだその時ではないし(それは復活の後に実現する、28:18に全権を与えられたとある)、モーセとエリアの場合、問題外であるから(ザント)。とにかく、ここでのペテロの発言は、少し軽い感じがする。
 5節「ペテロがまだ話していた時、見よ、輝く雲がおおい、そして見よ、雲の中から、声がして言った、『これは、私の愛する子、私の心にかなったもの、彼の言うこを聞け』」
 「輝く雲がおおう」は、出エジ40:34以下「その時、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた」などに由来する。「輝く=レウコス」雲は、神の顕現を表現している。おおう=エピスキアゾー」は、おおう、隠す、ことで、神の顕現を象徴する輝く雲が弟子たちを完全におおったこをいう。「見よ、そして見よ」との二回の線りかえしは、この輝く雲による神の顕現、声による神の啓示を強調している。しかも、これまでの視覚的な出来事ーーイエスの変貌、モーセ、エリアの登場イエスとの彼らの語らい、輝く雲の出現ーーに対して、初めて神の声による啓示が出現する。しかもこの箇所全体の中心ポイントは、この「雲の中からの声」つまり「神の声」にある。
 「これは私の愛する子」は、詩篇2:7「おまえは私の子だ」に由来する。ここはいわゆる王の詩篇で(他に、45、110編など)、「おまえ」は、王あるいはメシアをさす。2:7の後半「今日私はおまえを生んだ」は、神がその者を、王やメシアに任命することによって、彼は「神の子」になる、ことをいう。5節の引用の後半「愛する者、私の心にかなう」は、マタイ3:17、12:18にも出てくるが、「見よ、私が選んだ僕、私の心にかなう、愛する者」は、イザヤ42:1の引用のはずだが、70人訳とは異なる。
 ともあれ、雲からの神の声は、イエスについてのみ語っている。その言わんとすることは、イエスは初めから、神の子であり(1:21「救い主」、23「インマヌエル」)、洗礼の時にも、「神に愛されたみ子」と言われた(3:17)。そして、イエスが神の子(「私の子」「私のこころにかなう者」)でありたもうことに、イエスの語る言葉、教えの全権威は根拠づけられている。
 5節終わりの、「彼の言うことを聞け」は、この出来事に登場した、まず、モーセをふまえて、イエスの言葉はモーセのトーラ(律法)の成就であり、次に、エリアをふまえて、すべての預言者たちの預言の成就したものである、と言わんとしている。ここでは、モーセとエリアとを短く登場させて彼らと比べてイエスは新しい、終末時に登場した、真の啓示をなさるお方であることを、明らかにしようとしている。イエスは、新しいモーセ、新しいエリアではない。むしろ、諸国民のメシア、神の啓示者でありたもう、 と。
 6節「弟子たちは、これを聞いた時、顔を地に伏せて、非常に恐れた」
 ここは、神の声を聞いた時の弟子たちの「反応」を描いている。人間は、神の顕現、臨在にはとうてい耐えられない。神の出現に、「ひれ伏した」例(創世17:3、ヨシア5:14、エゼキエル1:28など)。ここの「顔を地に伏せる」「恐れる」は、神の臨在、出現にふれた時の、人間の「畏怖の感情」。それゆえ、神的な出現の定型的な表現には「恐れるな」とある。イエスやみ使いの呼びかけがなされる。マタイ14:17では、嵐の中でイエスが弟子たちに。28:10では、復活のイエスがマリアたちに。ルカ2:9以下では、み使いが羊飼いに。先の4節で、ペテロが、モーセらの出現に、ぺらぺらとしゃべった行為には、この畏怖が見かけられないので、軽い行動と見えたわけである。
 7~8節「イエスは彼らに近寄り、さわって言われた、『起きなさい、恐れることはない』。彼らが目をあげると、イエスのほかには誰も見えなかった」。
 「起きなさい=エゲイロー」は、本来、復活に用いられる用語。それゆえ、この「起きなさい」は将来、弟子たちが自分たちの復活の時に体験することがふまえられている。「眠っている」弟子たちキリスト者たちは、「起きなさい」というイエスの呼び掛けで、よみがえる・・・。
 「目をあげる」は、神的な出来事の開始(創世18:2、ヨシア5:13)やその終結(創世22:13)を示す。ここでは、後者。弟子たちはそこに地上的なイエスしか見なかった。      
 ポイントを二つほどふまえたい。一つは、神の啓示の形として、「目に見え啓示の形」(イエスの姿の変容、モーセやエリアの出現、彼らの語らいの姿など)は、「声による啓示の形」に比べると劣っていて、あいまいさが残る。ここでの雲の中からの「神の声」は、真の啓示であって、イエスの本質を、ずばりと言っている。「これは、私の子である」と。この事実は、文字に書かれた啓示である聖書のもつ意義をより高める。私たちにとっては、「聖書から」「神の声」は聞こえてくる。
 もう一つは、真の信仰体験には、ここにあるように、神に対する「畏怖、恐れ」というものが存在する。この点で、ペテロの二つの行為、「幻視」にふれて、ぺらぺらと提案した行為と神の声にふれて恐れ、戦いた行為との対比は興味深い。真の神体験には、神への恐れがある。