建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

憐れみのない僕の警え  マタイ18:21~35

週報なしー15

憐れみのない僕の警え  マタイ18:21~35 

 21~22節「その時、ペテロが進みよってたずねた。『主よ、兄弟が私に対して罪を犯した時、何度赦してやらねばなりませんか。七度までですか』。イエスは答られた、『私はあなたに言う、いや七度までではなく、むしろ七十七度まで』」。

 ペテロのいう「兄弟が私に対して罪を犯す」とは、侮辱、中傷、偽りを言うこと、何らかの損害を与えること、などを意味している(グニルカの注解)。
 「七度、七十七度」という表現は、創世記4:24「カインが七度復警したように、レメクは七十七度復警する」(70人訳)に由来しているようだ。ただ、レメクの詩では、加えられた危害に対する復讐の度合いの過算が言われているのに対して、ここでは逆に、罪に対する「赦し」が眼目になっている「赦す=アフィエーミ」は、21、35節に出てくる。
 23節から警えが始まる。「それゆえ、天国は、王が僕たちと貸し借りを清算しようとするのに似ている。王が清算を始めると、(王に)一万タラント(一億デナリ=300億)の負債がある者が王のところに連れてこられた。しかし、彼は返すことができないので、『主人』は彼に自分と妻子と持ち物全部売って返すように命じた。そこで、その僕はひれ伏して、嘆願して言った、『どうぞしばらく猶予してください。全部お返ししますから』。主人はその僕を憐れに思って、身柄を赦してやり、負債も棒引きにしてやった」。                            
 23~27節は、王とその僕との貸し借りの清算の話である。ここでの僕は、下僕ではなく、1万タラントの負債(金額)を動かす人物であるから、王の高官である。1万タラントはl億デナリ=300億、途方もない金額である。タラントという単位は、オリエントでは最大の貨幣の単位であり、今の日本ではさしあたりl兆ぐらいか。「連れてこられた」という表現は、31節の「牢に入れた」をふまえると牢から連れてこられた(エレミアス)、とも解せる。その僕はその負債を返すことができなかったので、王=主人は、僕の「持ち物=土地」を処分すること、また「自分を売る」は、牛や羊を盗んでそれを返さないで、自分に何も財産がない場合、「身を売った」、出エジ22:2。「妻を売る」ことはユダヤ教では禁じられていた。それで、この譬えは題材をユダヤ以外の地に求めたものとみなされている。「子を売る」は、負債者が何一つ持つていない時、最後の売り物であったようだ。子を奴隷として売っても千デナリ程度であったから、この僕はとうてい負債を返すこはできない。それゆえ、この主人の厳しい命令は、その怒りを示したものととるぺきだろう(エレミアス)。
 この僕は王に「ひれ伏し、嘆願した」。これは、彼が主人の慈悲に自分をすべてゆだねたこと。「ひれ伏す」も「嘆願した=ブロスクネオー」も、相手にひれ伏して、その足や衣に接吻する行為で、嘆願の最も緊追した形。僕は負債を赦してほしい、とはいわず、むしろ、返済を「猶予してほしい=待ってほしい」と言った。マクロチュメオーは、我慢する、寛容である、という意味で、直訳では、「私に寛容になってください」。「ひれ伏す」は29節にも出てくる。
 この僕に対する主人の対応は「彼を憐れに思って、身柄を赦してやり、負債を棒引きにしてやった」とある。「憐れに思う=スプラグキニゾマイ」は、他に9:36、14:14、15:32では「イエスは群衆を憐れに思った」など。この用語は、マタイ伝ではイエスにしか用いられてない点は注意すべきである。「身柄を赦す=アポルオー」は身柄などを釈放すること、牢に入れないこと(34節参照)。「負債を棒引きにする=アフィエーミ」は、罪や負債を赦す、免じること。「主人の慈しみは、その僕の願い=返済猶予をはるかに越えている」(エレミアス)。ーーここまでが譬えの前半である。
 28~30節「ところが、その僕は出ていって、自分に百デナリ(百万円)を借りている一人の仲間に出会うと、彼をつかまえて、首をしめて、いった、『借りているものを返せ』。そこで、仲間はひれ伏して、『どうか待つてくれ、返すから』と頼んだ。しかし、彼は承知せず、引つ張つていって、相手が負債を返すまで、牢に入れた」
 「仲間=スンドューロス」は王に仕えている同僚で、総督クラスの高官である。それゆえ、この警えはべテロら12弟子クラスの人々に語られたニュアンスがある。百デナリは百万円。先の金額よりもずっと身近な金額である。「彼をつかまえて、首をしめる」は、暴力行為というより、相手が逃げられなくするための、否応のない行動。仲間は、かの僕と同じように(26節)、返済の猶予を願った、「どうか待つてくれ、返すから」。かの僕の主人への返済の金額はとても返せる額ではなかったのに、それでも彼は猶予を嘆願した。それに対して、仲間がここで返済の猶予を嘆願している額は、返済可能な額である。かの僕が仲間に、持ち物の処分や自分を含めた家族の「身を売る」ことを要求できないのは、金額がそのような要求ができるものではないからである。百デナリはそういう金額とみなされている。
 しかし、僕は仲間の嘆願を拒否した。そればかりか、彼はその仲間を官憲に突き出し、債務拘留を強行した。仲間が働いて返済する方法を取ったのだ。「相手が負債を返済するまで、牢に入れた」はそのことをいっている。
 31~35節「その人の仲間の僕たちは、この出来事を見て非常に悲しみ、行ってそのことをのこらず主人に報告した。主人はその僕を呼び出していった、『悪い僕よ、あなたが頼んだから、私はあの負債を全部棒引きにしてやったのだ。私があなたを憐れんでやったように、あなたもあなたの仲間を憐れんでやるべきではなかったか』。そして、主人は立腹して、負債を全部返すまで、その僕を獄吏に引き渡した」
 「仲間の僕たち」も高官クラス。「悲しむ=ルペオー」には、悲しむ、という意味の他にも「憤激する」という意味もある(エレミアス)。「憐れむ=エレエオー」は、憐れむ、の一般的な用語。先のスプラグキニゾマイ(27節)でない点はふまえるべきで、こちらは人間による憐れみの行動には、用いられない。「獄吏=バサニスタイス」は拷間をする人。この僕が「負債を全部返すまで」とは、彼の負債は巨大なものであるから、一生返せないで、牢獄の暮らしをすることを暗示している。
 36節「私の天の父も、もしあなたがたがめいめいが心から兄弟を赦さないならば、同じように、あなたがたになさるであろう」。ーーー「心から兄弟を赦す」、これがこの譬えのポイントである冒頭のべテロの間いかけは、「七度まで赦すのですか」とあって、最大限の赦しを考えていた。それに対して、イエスは、最大限ではなく、無限の赦し、「七十七度」を言われた。しかし、赦しを数量的にとらえることには問題を感じられたのか、終わりの部分では、いわば、赦しを「質的に」表現された。それが「心から赦す」である。
 この譬えは、ベテロや弟子たちに対して、弟子の集団、教会の中での「兄弟への赦し」を取り上げたものである。譬えの前半における、1万タラントの負債のある王の高官の赦しの箇所ーー「主人はその僕を憐れに思って、身柄を赦してやり、負債を棒引きにしてやった」(27節)は、印象的である。ここでの「王、主人(キュリオス)」は、神を比喩的に示している。1万タラントは、負い切れない負債や罪を、その棒引きは、神の無限の赦し、心からの赦しの行為を表現している。神の「憐れみ」は、負債、罪のある者に負債の棒引き、無罪を宣言される、とある。
 この譬えでは、そればかりでなく、神からの心からの赦しは、自分の=「あなたの」仲間(33節)に対しても「心からの赦し」として、実現されなければならない、と語られている。この「天国=神の国=神の支配」は、「やがて」ではなく、「いまここで」、神の圧倒的な赦しが宣言され(譬えの形で語られ)、そのもとで、今度は、弟子たちの間で、兄弟の間で、教会員の間で赦しが起こる時に、実現されることになる。神の赦しとは、人と人の間でも「自分に罪のある兄弟の赦しを可能にし、実現せずにはおかないもの」とされている。
 他方、人と人との間で赦しが実現されない場合、今度は、すでに与えられた「神による途方もない、圧倒的な赦し」も「撤回される」。このことが、この譬えでは、警告として示されている。
 また、負債、罪の赦しの背後に、「神による憐れみ(スプラグキニゾマイ、エレエオー)」、人が持つべき「憐れみ=エレエオー」という用語が出てくることにも注目すべきである。この語はいわゆる憐憫ではなく、苦しみを共にする、というニュアンスである。この「憐れみ」が神の中に、人の中に起こった時に、相手への「心からの赦し」が起こる。人間の心にこの「憐れみ=同苦」が起こる時、神が私に向けたもうた「憐れみ」が想起され、自分が赦された圧倒的な負債と自分に対する他者の負債の少なさとの違いがふまえられ、また、神の「憐れみ」への「共鳴」が自分の中で他者への憐れみとして、体験される。そこから、他者への赦しは一歩の距離でしかない。どうか私たちの間でも、神による憐れみと赦しから、 他の人への憐れみと赦しが起こりますように。