建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

仕える人   マタイ20:20~28

週報なしー16

仕える人   マタイ20:20~28   平行記行マルコ10:35以下

 20~21節「その時、ゼベタイの子の母がその子らと共にイエスのもとにきてひざまづき何事かをお願いした。そこでイエスは彼女に言われた、『何をしてほしいのか』。彼女は言った、『私のこの二人の息子が、あなたのみ国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、命令してください』」            
 マルコ伝では、イエスにお願いするのは、ゼベタイの息子たち自身になっている。このゼベタイの息子とは、ヤコブヨハネである(マタイ4:21以下)。この二人はイエスの弟子で(同)、イエスの「山上の変貌」(17:1以下)、ゲッセマネの祈りのシーンでは、ペテロと彼ら二人だけがイエスと行動を共にしている点からみて弟子たちの中でもリーダー格であったことがわかる。のちに、ヤコブはへロデ・アグリッパ(へロデ大王の孫で、33~44年までユダヤを支配した)によって殺
され、ステパノにつぐ殉教者となった(行伝12:1以下「ヘロデ王ヨハネの兄事ヤコブを剣で切り殺した」44年)。えらい息子をもつことは、多くの母の関心事である。彼らの母は息子たちの信仰の生活にあれこれ配慮したのだ。この母はけして愚かな母ではない。息子二人が家をでてイエスに従ったのち、自らもイエスの弟子になったようだ。マタイ伝のみが、十字架につけられたイエスを遠くのほうから見ていた女性たちの一人に「ヤコブヨハネの母マリア」をあげているから(27:56)。
 彼女の「ひざまづく」行為は、嘆願者のイエスへの敬意を示すもの、ばかりでなく、イエスを王とみたてたもの。その点は嘆願の内容からわかるーー「あなたのみ国で、この二人の子が一人はあなた
の右に、一人は左にすわるように命令してください」。これはイエスが王位につかる時に、その左右の栄誉ある席につかせてほしい、との要請である。しかし、この母と息子たちの嘆願とイエスのみ国と間には、決定的な隔たりがある。この点を以下のイエスの言葉が明らかにしている。
 22~23「イエスは答えられた、『あなたがたは自分で何を願っているのかわかっていない。私が飲まねばならない杯をあなたがたは飲むことができるのか』。二人は『できます』と答えた。イエスは言われた、『なるほど、私の杯をあなたがたは飲むことになろう。しかし、私の右と左にすわること、これは私が与える事柄ではなく、むしろ私の父に定められた人々のために備えられたものである」。
 み国への道は彼らが考えているのとは別のものである、とイエスは言われる。「杯」という表現は苦難や死を示すものであった。「もしその杯を飲むべきでない者がそれを飲まなかったとすれば、あなたは罰をまぬがれることができようか」(エレミア49:12)など。ここではの「私の杯」はイエスの苦難と死の運命をさす。また、23節の「私の杯をあなたがたは飲む」は弟子たちの追害と殉教の運命のこと。ゼベタイの子らはその杯を飲める、と答えたが、現実には彼らを含めて弟子たちはイエスを見捨てたが(26:33以下)、他方兄のヤコブは殉教をとげた。イエスの言葉はヤコブのその運命を予告したもの。弟のヨハネについては、高齢に達して死んだという伝承と、やはり殉教したとの二つの伝承があるという(グニルカ)。マタイ伝は後者をとっている。
 イエスはまた、その人に特別の賜物、運命、栄誉を与えるのは、イエスご自身ではなく「私の父=神」であると言われる。ここでは、弟子たちの運命はイエスのそれと重なりあうと語られる。
 24節以下「十人の者はこれを聞いて、この二人のことで憤慨した。するとイエスは彼らを呼び寄せて言われた、『あなたがたが知つているように、諸国民の支配者たちはその民を抑圧し、また、偉い人々は彼らに対して権力をふるっている。あなたがたのあいだではそうであってはならない。むしろあなたがたのあいだで偉くなりたい者は、仕える者になりなさい。また、あなたがたのあいだで一番になりたい者は奴隷になりなさい』」。
 十人の弟子たちが慣慨したのは、彼らもヤコブヨハネと同じ期待を持つていたからである。しかし彼ら全員の期待、願いは、「この世の権力者」の考え、願望、実態とまったく同一である、とイエスはみなされる。
 「諸国民の支配者たち」における「諸国民=エトノーン」は、「異邦人」でないほうがよい。塚本訳は「世間では」。「支配者=アルコンテス」は、君候、支配者。「地上の諸王の支配者キリスト」黙示録1:5、「地上の支配者」行伝4:26など。ここの「諸国民の支配者たち」でイエスローマ帝国の皇帝や総督をイメージされておられたかどうかは必ずしも明らかではない。「イエスは権力者の力のもとで苦しんでいた無力な人々の日常的な体験を思い起されておられた」(ザント)。「イエスはこの世の権力者の態度を取り上げておられる」(グニル力)。イエスには、ローマ帝国の権力を直接批判された箇所はほとんどない。間接的に「それ」に言及したのがここであり、ここのみである。イエスは地上的な権力の実態をよくみておられたーー「諸国民の支配者たちはその民を抑圧し、偉い人々は彼らに対して権力をふるっている」。
 「抑圧する=カタクリュオー」は、支配する、暴力的に支配する、圧迫・抑圧する、という意味。「偉い人々=メガロイ」は、尊厳のある人々、偉い人々、の意味。「権力を振るう=カテクーシアソー」は、公権力を乱用する、という意味。
 26節において、イエスはこの世の権力者のありようを批判しておられるーー「あなたがたの間ではそうであってはならない」。
 そして続けて「あなたがたの間で偉くなりたいと欲する者は、仕える人となり、またあなたがたの間で一番になりたいと欲する人は奴隷とならねばならない」。
 ここでは「偉くなる=メガス」と「「仕える人=デイアコノス」、「一番になる=プロトス」と「奴隷=ドューロス」との反対語が対比されている。この対比はルカ22:26以下では「一番偉い人」と「一番若輩者」、「支配する者=へグーメノス」と「給仕する者=デイアコノス」との対比になっている。
 他の人間を支配しようと欲すことはイエスの考えとまっこうから対立する。イエスは他者のために仕えること、奴隷となること、ここにこそ真の偉大さがある、と語られる(グニルカ)。奴隷という存在は、当時の人々にとっては日常的に目にしているものであった。他者のために奴隷となれという要請をもって、イエス奴隷制度の消減、奴隷という存在がなくなること、自己を放棄して他者に仕えることこそ、新しい人間的なありかたである、と主張された。この点がこの箇所のポイントである26~27節では「あなたがたの間では」という表現が3回繰り返されて、他者のために仕えることが、弟子たち、教会の原理であるされている。
 この要請・原理のいわば模範として語られているのが、28節である。
「人の子が来たのは、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人の贖いとして自分の命を与えるためであるのと、同じように」。
 ここの「人の子」は、私ぐらいの意味。人の子の生涯は人に仕えることにあった。
「贖い=ルプトロン」は奴隷などを買い受ける身代金のこと。また、身におびた罪のためのあがなうものを意味する。この背後には、イザヤ53:10「彼は自分をとがの供え物とする」「彼は多くの人の罪を負う」=12節などがある。さらに、イエスの死をあがないの意味で解釈し、最後の晩餐の言葉「罪の赦しをえさせる、多くの人のために流された私の契約の血」26:28。との関連がある。人の子の死をとおして、罪とあがないとが実現する、これが、「多くの人の贖いとして自分の命を与える」の意味である。奴隷として他者に仕えることの、極限の姿、それが、自分の命を他者=「多くの人すべての人」に与えること、と言われている。ヨハネ15:13はアガペーとは「人がその友のために自分の命を捨てること」といわれ、そこでもイエスの死が想定されていた。ここでは、他者に仕えることの究極の姿・行為として、ご自分の命を他者に与えたもうイエスの死が語られている。
 自分の死に至るまで他者につかえる、これがこの箇所でイエスが告げられた教えである。その姿はどこかで「奴隷」の生涯・姿とダブル。シモーヌ・ヴェーユはキリスト教は「奴隷の宗教である」といったが、ここでは、社会的な意味ではなく、精神的・宗教的な意味で、イエスは奴隷の姿を示されてキリスト者のあるべき存在を教えておられる。