建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

最大の戒め  マタイ22:34~40

週報なしー17

最大の戒め  マタイ22:34~40 

 34~36節「イエスがサドカイ人を言い込められたと聞くと、パリサイ人は一緒に集まってきた。そしてそのうちのひとりの律法学者がイエスを試そうとして尋ねた、『先生、どの戒めが律法の中で最大ですか』」
 「言い込める=フイモオー」は、相手を沈黙させること。「一緒に集まる=スシナゴー」は、かなり多くの人が、イエスのもとに集まったことが考えられている。多くの注解はここを「律法学者が」と読む。「イエスを試みようとして」は、16:1、19:3、22:18などではいずれも、パリサイ人や律法学者の行動として出てくる。しかも、取り上げられたテーマは、メシアのしるし、離婚問題、ローマへの納税開題など、いずれも、当時の宗教的、政治的に、避けてはとおれないものであった。ここでも、トーラ(律法=ノモス)のうちで最大なものへの問いが問題になっている。
 「最大の戒め=エントレー,メガレー」の「メガロス」は「大切な(協会訳」、「偉大な(ザント)」、「最大の(塚本、グルニカ)」など。「最大の」の訳では、「メイゾン」という読み方をとっている。どうして、「律法のうちでどの戒めが・・・」という問いがおこるかというと、当時のユダヤ教では、トーラは613の個々の戒めに区分され、その内248が「汝・・すべし」、365が「汝は・・・してはならない」とあったからだという(グニルカ)。常識的には、これだけの戒めがあるということは、ないのも同じになってしまおう。「どの戒めが・・」という問いには、やはり煩雑な戒めを単純化しようとのラビ的な努力がみられる。
 問う者は、イエスに「先生=ディダスカレ」と呼びかけているが、この難問ーー律法の単純化の問題をどう対処するかを「試みようとしている」。
 37~38「イエスは言われた、『あなたの心のかぎり、あなたの精神のかぎり(申命6:5)、あなたの思いのかぎり、あなたは、主なるあなたの神を愛さなければならない』。これが、最大の、第一の戒めである」
 「心のかぎり」は、「心(カルディア)全体(ホレイ)で」、「精神(プシュケー)全体で」。ここまでが申命6:5からの引用。マルコ12:29以下では、この引用は6:4「聞け、イスラエルよ、
われわれの主なる神はただひとりである」と「力のかぎり」(6:5)が入っている。
 「思い(ディアノイア)全体で」は、引用にはない。ヨシア22:5には「思いのかぎり、精神のかぎり、主に仕えなさい」(70人訳)とある。この「ディアノイア=思い」は、思考のことで、理性的な要素を言っている。
 とにかく、「心、精神、思い」の三つは、あるものに向けられた、努力、意欲、感情、思考、つまり、人間の存在全体のいとなみを意昧している。神への愛は、人間の努力、意欲、感情によるのだが、イエスは、先の引用(申命6:5)にあった「力のかぎり」の代わりに「思いのかぎり」を入れることによって、神への愛に「理性、知性的なもの」を導入されたわけである。
 この神への愛の戒めが「最大の、第一の(プロートス)の戒めである」とイエスは言われた(38)。「最大の」は「第一の」という意味である。
 39節「第二もこれと同じ(に大切である)、『あなたは、自分自身と同じように、あなたの隣人を愛さなければならない』」
 「同じ=ホモイオス」は、同じ重要性、同じ序列を言っている。第二の戒めは第一のものと同じだとイエスはみなされている。マルコ12;31では、「第二はこれである」とあって、マルコ伝では隣人愛は、神への愛にくらべて「第二のも」のでしかない。したがって、マタイ伝は、この隣人愛を特別に重視しているといえる.言い換えると、マタイ伝では、二つの戒めは「二重の戒め」となる。
 引用はレビ19:18から。「自分自身のように=ホース・セアウトン」は、隣人愛が「自己愛」を前提にしている、ということではなく、この語は「愛の無制約さ」を示している(ブルトマン『新約聖書神学』)。
 40節「この二つの戒めに律法全体と預言者とは支えられている」
 ユダヤ教の文書「12族長の遺訓」にも「主と隣人を愛し、貧しい者や弱い者に同情せよ」(イッサカル5:2、7:6)とあって、神への愛と隣人愛との並存がみられる。また、ユダヤ教の思想家フイロのものにもこうあるーー「無数の個々の教えと命題が集約される、二つの根本的な教えがあるーー神に関する点では、神を崇拝すことと敬虔であり、人々に関する点では、人々に親切にすること(ヒイルアントロピア)と正義である」。
 しかし、神への愛と隣人愛とは、このような見解以上のことが考えられている。トーラをふまえたうえでそこから直接導き出されているからである。言い換えると、ユダヤ教には、まだ、この二つの戒めを律法の総括とする解釈は存在しなかったのだ。
 「預言者」とあるのは、「預言者によって正当とみなされた律法の解釈」という意味である。とにかく、イエスはこの二つの戒めで、トーラとその解釈を総括しようとされた。

 さて、この「神への愛と隣人愛」との関わりはどうなっているのだろうか。マルコ伝の立場はすでにふれたように、第一と第二の関連であった。
 ルカ伝の場合、この二つは「また」で結合されていて、「二重の戒め」と解釈された(10:25 以下)。しかも、この戒めの「展開」として、例の「善きサマリア人のたとえ」が始まる。すなわちどちかと言えば、隣人愛のほうに力点が置かれているといえる。
 しかし、ボルンカムの『ナザレのイエス』で語られているように、「神への愛」は、単純に「隣人愛」に吸収、解消されないーー隣人愛さえあれば、神への愛はこだわる問題ではない、とは言えない。他方、「神のために」隣人を愛することは、真の愛ではないーー神への愛さえあれば、隣人愛はこだわる問題ではない、とは言えない。
  マタイ伝は、ルカ伝とは違って、この二重の戒めをどちらにも解消しない。ボルンカムはこう語る「イエスがこの二つの戒めを分かちがたい一つのものに結合した理由と意味は、愛の対象(神と隣人)が平等だからではなく、愛そのもの本質にある。愛とは、イエスが言われるように、自己愛の放棄であって、自らを棒げようとし、事実棒げる行為である。愛は肋けを求める者がそこにおり、助けを必要とする隣人がいる場合に要求されて起こる。愛はこのようにしか起こらない。その時、神への愛と隣人愛とは一つになる。神への愛、献身とは、自分の内面性の楽園に魂が帰ることでも、自分を敬虔な沈潜に浸らせることでもなく、他者において私に呼び掛ける神に対して目覚めていること、いつでも立ち上がる姿勢にあること、である。この意味において、隣人愛は神への愛を立証する」
 しかし、「二重の戒め」とは、一つにならないから「二重」なのである。マタイ伝は、レビ記のあの引用が3回も出てくるほど、25章に印象深い「小さな者への憐れみの行為」の例えがあるほど、
隣人愛は強調されている。他方、マタイ伝は、神への愛を圧倒的に主張する。「まず、神の国と神の義を求めよ」(マタイ6:33)。この神への愛は、隣人への愛の義務によっても破棄されない(ボルンカム)。
 教会史の中では、どちらかといえば、カトリックは「神への愛と献身」を重くみたが、他方、プロテスタントは、 隣人愛を重視してきた。教会の「自己目的性」と「手段性」のポイントに転調するとプロテスタントは「手段性」、つまり教会の社会的な活動や奉仕を重視し、「自己目的性」、神を礼拝するためだけに集まる、のほうはカトリックに比べると軽視されたように映る。
 そればかりではなく、西欧とちがって、日本では、キリスト教の伝統として、真の意味で「敬虔、神への恐れ」、自己の信仰の確立のテーマが一般に弱い、という問題がある。
 その意味でも、このマタイ伝において、イエスが「神への愛と隣人愛」を、あくまで二重の戒めとしてとらえ、解釈された点はきわめて重要である。神からの愛に対する応答として「神への愛」をどのように「形成、形づくるか」が、現代のキリスト者に課せられたテーマである。