建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

教会と国家  ロマ13:1

1996-6&7

1996/5/26&1996/6/2
教会と国家  ロマ13:1
 (1)教会と政治的な活動の間題を取り上げたい。その手始めに、国家に対して、教会がどのように行動すべきかを述べたロマ13:1を学んでみたい。ロマ13:1についての最も古い近代語訳はルタ-のものである、
 「すべの人は、自分に対して権力をもっている《国家権力》に《臣従》すべきである。というのは、神によらないいかなる国家権力もないし、国家権力というものは神によって任命されているからである」。参考までに一番新しい訳「すべての人は上に立てられた権力に服従すべきである。神によらないいかなる権力も存在しないし、また現存するすものは、神によってすえられたからである」(1973、ケーゼマン訳)。「エクーシア」(複数形)をルターは「国家権力」と訳したが、これは「権威」(協会訳)よりもすぐれている。ここでパウロは「この世的な政治的権力」、ローマ帝国の「国家および都市における在職中の文官、武官、役人」を想定しているから(ボルンカム「パウロ」)。テトス3:1においては「支配者・当局者」と並んで「支配者や権力者(権威)に服し従う」。一般的にはこの語は「権力」と訳される(前田・松木・ケーゼマンの訳)。「臣従する・ヒュポタソー」とのルターの訳は、服従一般ではなく「臣下として服従する」という意味で、自由意志によるものではなくて、封建的な主従関係をイメージさせる。「従属する・屈伏する」の他に「自由な意志によって服従する」の意味がある。パウロがここで権力者に《服従せよ》と勧告したのはキリスト者が政治的にみて「従属的な身分」にあるからそうせよというのではなく、むしろキリスト者の生活の特徴としての《謙虚さ》を根拠にして言ったもので、また文脈的には《従え》という勧告は、平等を要求するキリスト者の奴隷や婦人たちがその教会に存在し、彼らの解放を求める傾向に対して向けられたもののようだ(ケーゼマンの注解)。「ローマの教会は公然たる叛徒となるということではないにしても、国家から示威的に距離をとり、自分たちの市民としての義務を怠るという危険の中にあった」(ボルンカム)。
 注解者たちのこの指摘は重要である。というのは、この簡所は歴史的には、国家の命令には「どのような命令であろうとも屈伏しよう」とするキリスト者たちの、聖書的な根拠とされ、キリスト者の抵抗のエネルギーを奪う箇所ともなった。しかしパウロが勧告した相手は「あくまで国家に対して背を向けたり国家に逆らう可能性を持つキリスト者達であった」からである。
 バルトはこのルターの訳語に反対していう、「《服従する》と《臣従する》とでは大きな相違がある。ここで意図されているのは、キリスト者共同体が、為政者に《できるだけ盲目的に服従することや唯々諾々と従うことではない》。…《服従》というのは、市民共同体の維持と擁護、課題の遂行のためになすべきキリスト者の共同責任の遂行を意味する」(「市民共同体とキリスト者共同体」)。ゴルヴィッツアーはこの用語を「愛に満ちた譲歩の意味での従う」を意味するところの、エペソ5:21「互いに仕えあいなさい」、Ⅰコリント16:16などを根拠にして「服従する」を「仕える」と解釈する。すなわち「権力者に対して《しかり》を言うだけではなく、苦しみを覚悟で大胆に《いな》を言うこと抵抗すること、服従を拒否することである」。
 (2)教会の主要な課題は、キリストを主と告白し、世の人々にも、キリストの証人となること、宣教、教会形成にあるといえよう。しかし教会の政治的な領域における行動はこの「宣教に含まれるのかどうか」という問いが存在する。戦後日本のプロテスタントの「特に保守的な福音派においては」、政治的な行動は宣教から除かれた。他方、NCCなどに集まる普通の教派においては、教会の政治的な行動も「キリスト者の証し」として、広い意味で宣教に含まれると考えられてきた。特に教会は政教分離の原則の視点にたって国家が宗教の領域にまで介入してくるような状況では、国家の干渉・信教の自由の侵害に対して抵抗するという姿勢を従来のプロテスタント教会は一応備えていた。その例が1960年代後半から70年代にかけての「靖国神社国営化」への反対運動、あるいは昨年の諸教派、団体の戦争責任に対する「罪責告白」、「宗教法人法・改正反対運動」などであった。他方60年代以降、教会の中では政治的な対応・決断をめぐって意見は割れている。具体的には、政治的決断・行動を「キリスト者個人のもの」とみなし「教会共同体全体による決断」を放棄する立場、キリスト者個人の政治に対する立場と教会全体のそれとは奇妙に「分離する立場」が存在する。1963年に書かれた北森嘉蔵氏の「キリスト者と政治」という評論の立場である。
 「キリスト(者)は政治に対し《分離》されながら《内在》するのである。キリスト《教会》としては、政治から分離されて政治的世界を超越し、いっさいの権力闘争の修羅場を底からささえる和解のつとめを引き受ける。しかし教会に所属するキリスト《者》としては、自由に特定の政治的立場を選びとることができ、特定の政党に所属することも許される。《教会》はこのようなキリスト者を生み出し、彼らの政治的な行動の、とくに権力闘争の問題性を神にとりなし、彼らを牧するのであり、この牧会の責任を負うのは教職者である」(井上良雄「戦後教会史と共に」)。この見解はルタ-の教説を想起させる。
 (3)ルターの有名な「二つの王国」という教説がある。唯一の神は異なった仕方で世界および人間を支配される、キリストの支配とこの世の国家権力の支配である。「キリストの統治は内的でそこでは正しく福音が説教される恩寵の国であって、ただ信仰にのみ基礎づけられている。これに対して、ヘロデの統治は外的で、律法について語られ、業によって基礎づけられている。それゆえ二つの統治は一致しない」(ルター「キリストとへロデの支配について」1521、倉松功「ルターと現代」)。さらに「キリストの支配に仕える霊的統治(教権)はただキリストのみが支配するようにし、自らはただキリストの使者としてキリストの宣教しなければならない。他方キリストが霊的統治を引き受けられたので、世俗的統治(世俗的公的支配権)は、キリストに代わって、理性とその法とによって悪しき者を罰し、義しい者を保護する課題をもつ」(ルター「旅の説教」1522)。
 要するにルターの教説によれば、キリストの支配と国家権力の支配とは「並存しており」、二つの支配は互いに独立の関係になる。結果的にさまざまな問題が起きてくる。例えば個人化という問題。「教会は政治的行為においてはキリスト者個人の個人倫理の課題に矮小化され、教会共同体全体の課題ではなくなる。またこの世においてキリストの命令は、キリスト者の《心の中に》とどまり、キリスト者が共同して、国家権力の悪、人権の侵害、信教の自由を侵犯すなどに抵抗するとか、共同してより善い社会秩序をつくることに協力するという行為をとりにくくさせた」(ゴルヴッツアーの論文「政治の世界における教会」、「自由の要求」1962所収)。
 福音はこの世における政治的行動に対して積極的にどのような意味をもつかという間いが出されるべきである。ナチズムの支配のもとでカール・バルトが提起したのもまさしくこの問題であったという。ドイツの多くの教会が、ルターの「二つの王国」という二元論を引き合いに出して、自分の関心のある事柄のためにしか戦わず《政治的な神奉仕》を怠っているとバルトは考えた。教会の伝える特別のキリスト宣教が《政治的な領域では意味がなく役に立たない》かのように判断する、キリスト者の立場は誤りだと主張したのだ。《ルターの二つの王国論の根本的な問題は、この世におけるキリストの支配を考えていなかった点にある》とゴルヴィッツアーは主張する(「自由の要求」)。先の北森氏の引用にも、同じ問題がある。
 ナチズムに抵抗してバルメンという町でバルトやニーメラーらを中心につくられた神学的文書「バルメン宣言」(1934)、第二項はルターとは違って、こう述べている、
 「われわれがイエス・キリストのものではなくて他の主のものであるような生の領域がわれわれにあるとか、われわれがイエス・キリストによる義認と聖化を必要としないような領域があるという誤った教えを、われわれはしりぞける」。
 以下でバルトの「キリスト者共同体と市民共同体」(1946)の内容を少し丁寧に学んでみたい。バルトはこう考える「キリスト者共同体は、キリストが教会の主であると共に、また世界の主でもあることを信じる」。
 この見解によれば、第一に、政治的な領域でのキリスト者の行動においては、その行動の判断基準も実践も「個人倫理」に解消されるべきものではなく、キリスト者の「共同体的な」倫理・行動でなくてはならない。ルターの教説からは政治的な領域ではもっぱら政治権力への従順のみが強調されて、教会の共同体的な行動は生まれず、個のキリスト者の行動のみが出てきた。第二に、「キリスト者共同体は、その政治的行動、判別、判断、選択、意志によって《間接的ではあるが、まさに現実的な証しをしている》。したがって《その政治的行為は信仰告白でもある》」。このポイントは60年代の日キ平においても論争された。赤岩牧師はキリスト者平和運動の神学的な基礎づけを不要といい、井上氏は、その基礎づけとして「証しとしての平和運動」を説いた。
 (4)世界の主  工ペソ1:20~21
 カール・バルトの主張した「キリストは教会の主であるばかりでなく、世界の主でもある」との見解について。キリストの主権については新約聖書にはこうある。イエスの地上の活動において「全権・イクーシアはこの世全体に対する世界審判者の王的な力を意味している」(シュニーヴィントの注解)。マタイ9:6「人の子は地上で罪を赦す全権をもっている」、7:29「イエスは全権(イクーシア)をもつ者のように教えなさった」、ルカ12:8「誰でも人の前で私を(主と)告白する者を、人の子(私)も裁きの日に、神のみ使いたちの前で認めるであろう」(ここは「イエスの全権要求」と呼ばれる)。マタイ21:5(ヨハネ12:15)「見よ、あなたの王はおいでになる」。ピリピ2:9においては十字架の死に至るまでのキリストの服従によって「神はキリストを高くあげられ、すべての名にまさる名(主)を彼に与えられた。イエスの名によって、天上のもの地上のもの、地下のものに、ひざをかかがめさせるためである」。(続)