建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

「聖なる、公同の教会を信ず」  第一コリント1:2

1996-3

1996/5/5

「聖なる、公同の教会を信ず」  第一コリント1:2 

 使徒信条における「聖なる、公同の教会を信ず」の内容を明らかにしたい。
 「聖なる教会」について。「聖なる」についてバルトは、教会が歴史的、社会的な結社からは、教会の委託、根拠、目標の点で、引き離され、区別されることを強調する。「教会は一つの隔離を意味する」(バルト)。後述するが、「聖なる・ハギオス」には「神によって聖別された、選び分かたれた」という意味があるが、バルトはこの点を強調した。
 ルカ1:70「神の聖なる(聖別された)預言者たち」、マルコ6:20「洗礼者ヨハネは正しく聖なる(神に聖別された)人である」、エペソ3:5「彼の聖なる使徒たち」キリスト者一般について、第一ペテロ1:16「あなたがたも聖なる者になるべきである」、3:5「昔、神を仰ぎみた聖なる女たち」、ヘブル3:1「聖なる兄弟たちよ」など。
 モルトマンはいう「教会の聖なることは、その礼拝や構成員の神聖さではなく、罪人に対して行為なさるキリストの神聖さである。キリストがご自身の教会を義とすることをとおして、教会を聖とする」。
 「聖なる」に関連して聖書をみてみたい。旧約聖書においては「聖なる残りの者」という見解があった。列王上19:18「私はイスラエルのうちに七千人を残すであろう」=ロマ11:4)、イザヤも「シオンに残る者」(4:3)、また自分の息子をシャル・ヤシュブと名づけたが、その意味は「残りの者は大能の神に帰る」であった(イザヤ7:3、10:21)。ゼパニア3:12ではこの残りの者は「私は柔和にしてへりくだる民をあなたのうちに残す」とある。
 また主・ヤハウエを信じる者の意味で「聖徒」すなわち「聖なる者たち」との表現が出エジ19:6で選ばれた民に意味で「あまたがたは聖なる民となる」。また詩篇には多く出てくる。「主の聖徒よ、主をほめうたえ」(詩30:4)、「わが聖徒を私のもとに集めよ」(50:5)、「聖徒の集いで、主の誉れをうたえ」(149:1)など。
 新約聖書において。第一コリ6:11「あなたがたは主イエスキリストの名によって、また私たちの神の霊よって、きよめられ、義と宣告されている」、
 同1:2「コリントにある神の教会、イエス・キリストによって《きよめられ》召された《聖徒たち》」は短い文の中に教会について深い内容を述べている。まず、「コリントにある神の教会」は明らかに個別教会を示しているが、普遍的な教会を意味するとの解釈もある。また「イエス・キリストによって」はキリストによる救いの出来事「きよめられた」ばかりでなく「私たちの中にキリストが存在したもう」も言っている。「召された」の主体はむろんパウロでなく神である。「きよめられた」は「聖なる、聖徒・ハギオス」の受け身形の分詞。ここに名詞と分詞の二つが出てきている。また2節にある「いたるところで主イエス・キリストの名を呼び求めている人」はキリスト者を表現する専門用語となったとコンシェルマンはいう(行伝9:14、第2テモテ2:22)。
 聖徒は他にピリピ1:1「キリスト・イエスにある聖徒」、コロサイ3:12「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者」。
 新約聖書において決定的であるのは、新しい創造の力としての聖霊である(モルトマン前掲書)。教会を聖とするのはこのみ霊の働きである。ロマ8:9「神のみ霊があなたがたに宿っているなら、あなたがたは肉におるのでなく、霊におるのである」、8:14信仰者は「神のみ霊に導かれている」、第一コリ12:14「私たちは一つのみ霊によって一つの体となるようにバプテスマを受け、そしてみな《一つのみ霊を飲んだ》(ここは聖餐式のブドウ酒にあづかることがふまえられている)」、第二テサ2:13「神はあなたがたを初めから選んで、み霊によるきよめによって救いを得させた」、第一ペテロ1:2「み霊のきよめにあずかっている人たち」など。
 「聖なる人々・聖徒」と呼ばれるのは、彼ら自身が人間的道徳的に聖であるという意味ではなく、常に神の働きを言っている。すなわち、神はキリストによって無信仰の者を召し、罪人を義とし、失われた者を受け入れたもうことによって、キリストの教会をきよめる(モルトマン)。「聖徒の交わり(これは使徒信条にある言葉)は常に同時に《罪人の交わり》でありまた《聖くされた教会》は、いつも《罪深い教会》である。教会が永続的に『われらの罪を赦したまえ』と願うことによって、教会は自らが罪の中にあることを認め、 同時に罪に対する神の赦しの中で自らを聖いものとして認める。…罪の告白と義認の信仰において、教会は《罪人の交わり》と同時に《聖徒の交わり》との両方なのである」(モルトマン前掲書)。
 このように「われは聖なる教会を信じる」は、個別の教会に対するみ霊の働きかけがあって、キリストの十字架における罪の赦しが今もなおここで起こること、それをとおしてその共同体自体の「きよめられること」を信じるという点にある。このきよめられることは、争いや対立、恨みや憎しみがたとえ存在したとしても、決して沈殿しないという意味である。情しみを定着させたような教会は聖なるとは呼びにくい。

「公同の教会」について。
 「公同の・カトリコス」は「普遍的な、公同の、全体的な」という意味で「普遍的な教会」は「個々の教会」の対比で用いられる。この語は聖書にはなく、アンテオケのイグナチウス(後35-107ころ、アンテオケの司教、殉教したという)によってはじめて用いられた。「イエス・キリストがあるところに、カトリックな(普遍的な、公同の)教会がある」(イグナチウス、モルトマンより)。「教会の公同性は、普遍的な、すべてを結合するキリストの臨在によって決定される。…その臨在は、人の住んでいる全地球のすべての場所における臨在、 歴史のあらゆる時期における臨在を包括する。公同という概念はキリストにおける教会の一致と聖さ、使徒的であることを包含している」(モルトマン)。
「公同の」は「普遍的」ということであるが、現実の教会は、部分的であって全体的でなく、まだ決して完全なものではないから「公同の」とは言いがたい点がある。その部分的な、不完全な、個別的教会を「公同の」と呼びことができる可能性はあくまでも「キリストご自身の現臨」すなわち「聖書的」あるいは「使徒的」という点にある。特定の指導者、カトリック教皇や特定の教理、無教会主義に行きついて、それが一つの壁となるならば、教会の公同性は限りなく減少する。しかしその壁を突き破って、聖書自体に到達してそれに依拠できれば、その教会は公同性をより多く得る。
 社会的政治的な文脈では、教会の公同性は、決して教会が「中立」を守ることを意味しない。イエスの到来は、決してすべての人に公平にではなく、病人、貧しい人、悲しむ人、罪人や取税人、女性、異邦人に優先的に近づくという特徴をもった(マタイ9:10以下、5:3以下、11:19、15:21以下)。パウロのいう、神によるイスラエルの棄却は、異邦人の救いのため、またやがてはイスラエルを救う神の摂理のもとにあった(ロマ11:11)。このような「優先」はあくまでも、優先されていない人々、金持、パリサイ人や律法学者、健康な人、イスラエルを見捨てるためではなく、いわば彼らの救いのためであった。むしろここでは「中立、公平」が教会の普遍性ではなく、弱い人々への偏向こそが、教会の普遍性の立場となる。その場合、教会が聖書の御言葉をではなく、ある運動体の活動の綱領を前提としたり(真宗教団における「部落解放同盟」の綱領を受けいれの例)ある政党の運動方針を前提化すること、社会党の運動方針に対する一部の教会や共産党の方針に対する一部のキリスト者の対応の例(ナチズムの支配下社会主義政権下の教会にあったことだが)は、正しくない。教会を支配するのはキリストご自身のみである。