建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

強制労働の問題  コロサイ3:23、24

1996-14(1996/7/21)

強制労働の問題  コロサイ3:23、24

 ドストエフスキーは「心をこめた過度の仕事、これこそ一番の幸福です」と拘置所からの兄宛の手紙に書いた。石川啄木も「こころよく 我に働く仕事あれ それを仕遂げて死なんと思ふ」と歌った(「我を愛する歌」)。現代人にはこのような「心をこめたオーバー・ワークやこころよく働く仕事」はほとんど与えられていない。私たち現代人は、どちらかといえば、仕事自体に意義とやりがいを見出すからではなく、給料がほしいから働くのである。仕事の意義が仕事自体よりも仕事の報酬のほうに重点があって仕事が収入を得るための手段となっているとしたら、そこに恐ろしい転倒が起きていることになる。
 囚われ人(政治囚、強制収容所の囚人)は共通して強制労働を課せられたが、賃金は全く支払われなかった。言い換えると、娑婆の人間が労働に対してもつ収入を得るという労働の意味が、囚われ人には始めから奪われいたのだ。それでも彼らは働かされた。一銭にもならい労働を囚われ人はどのようにして遂行したのだろうか。
 ドストエフスキーは、囚人の強制労働の苦しさは、労働の内容や長さにあるのではなくむしろ《強制されてしなければならないことにある》、例えば自由な農夫は囚人よりもはるかに余計に働くが、はっきりした目的があって、また《強制されずに働く》のであるから、はるかに楽だ、と語っている。
 「死の家の記録」の中に、囚人たちが古い荷舟を解体するシーンがある。この作業で囚人たちの仕事ふりが、監督の兵士たちの指図・監視のもとで定刻までやる場合と、他方仕事の全体量が始めから定められていて、手順や人員の配置については囚人たちの自主性に任される「請負い」の場合とでは、彼らの働きぶりがどのように変化したかが見事な筆致で描かれている。
 監督の指図で定刻までの場合、囚人たちは現場に着いても一人も作業に取りかからず、みな腰をおろし、中には長靴からたばこ入れを取り出して吸いはじめる者もいる。彼らは何度か「請負い」を頼んだが監督の兵士は許可しなかった。やがて監督にどなられて、しぶしぶ腰をあげて河のほうへ下りていく。おっちょこちょいの一人が、張り切って作業に取りかかっても、誰も手をかさない。それどころか古参の仲間から、でしゃばりめと非難をあびた。早く始めろと、監督がまたどなる。一同はやっと作業を始めるが、気乗りしない投げやりの仕事ぶりで、古い木造の舟を解体して、舟体の太い材木を折らないで取りはずすよう指示されていたのに、かんじんの材木は折れてしまった。
 監督は技師を呼びにいった。やってきた技師は請負いを許可した。四本の太い材木を折らないで取りはずす、舟は解体する、それが終ったら帰ってもいい。
 「請負い仕事としてはこれはたいへんな量であった。しかし驚いたことに、一同の張りきりぶりはすさまじいものであった。あの大儀そうなそぶりはどこへ姿を隠してしまったのだ。斧の音が高らかに鳴り響き、木釘はつぎつぎに抜かれ始めた。ほかの連中は太い丸太を何本が下にあてがい、二〇本の手でそれにのしかかるようにして、元気いっばい手ぎわよく材木を取りはずした。材木は今度は少しも傷つけられずにそっくりそのまま無事に取りはずされたのには、私も思わずあっけにとられた。みんなが急に頭がよくなったようなあんばいであった。一人一人みんな、自分のすべきこと、なすべきこと、どこにいたらいいか、どんな注意を与えたらよいかを、ちゃんと心得ていた。終りの太鼓が鳴るきっかり三〇分前に決められた仕事はきちんとかたずいた。そして囚人たちは疲れていたが、すっかり満足して帰途についた」(第一巻の六)。
 ここには強制労働に「請負い」が導入されることで、強制の要素が減殺されると、囚人たちがどれほどよみがえったようになったか、監視や指図によっては阻まれていた自分の能力、熟練、自発性と創意を発揮するチャンスが与えられることで、どのように彼らに魂が吹きこまれたか、が生き生きと描写されている。
 そればかりではない。囚人たちが「一銭にもならない」その作業と格闘して「疲れてはいたがすっかり満足して帰途についた」事実は、現代の私たちの仕事への意味、収入のために働くという意義づけに対して重大な問いを投げかけている「収入を得るために働くというのが仕事の真の意味なのか、では一銭にもならない場合は働かないのか」と。さらに監督の指図のもとでの囚人たちのやる気のない姿は、仕事の真の意味を求めてやまない彼らのプロテストの姿である。仕事そのものは給料のためにやむなくしぶしぶやるものではなく、自発性に基づき、仕事自体にやりがいがあり、自分の個性、能力、創意を発揮できてそれに生涯打ち込めるような仕事、まさしくそのような作業に彼らはあこがれていたのだ。そのあこがれのゆえに、彼らは働いたのだ。
 シモーヌ・ヴェーユも奴隷的な労働からの解放の手段と考えたのは、労働時間の短縮や給料のアップ、単純作業のオートメイション化などではなく《働くことの究極性を獲得する》という見解であった。彼女は、この究極性として「美」「詩」と「神」を労働者の世界に導入することをあげた。   「労働者たちの条件は、人間存在そのものを構成している究極性が神によってしか満たされない、そのような条件である」(「奴隷的でない労働の第一条件」、前掲書)。
 さてドイツの神学者へルムート・ゴルヴィッアー(1908~93)は、ドイツ教会闘争の闘士マルチン・ニーメラ一牧師がナチス・ドイツに抵抗して逮捕された後、ベルリンのダーレム教会の牧師となった。しかし彼自身も激しい抵抗をしたため、懲罰的に一兵士としてロシア戦線に送られた。そしてソ連軍の捕虜となり五年間ラーゲル生活を強いられた。帰国後その体験を本に著した「欲せざることろに引かれ行く」(1951)。
 「使徒パウロに手紙にある、(キリスト者の)奴隷に対して言われた言葉が、当時(古代ローマ)の人々にとってどんな意味をもっていたかが、実に大きく現われてきた。すなわち、当時の人々は理性的には人間らしい関わりなど生まれてこない奴隷の仕事に対してあくまで人間らしく行動するための活路をひらかれた。奴隷たちへのパウロの語りかけは奴隷のキリスト者に『あなたがたのすることは《人に対してではなく、主キリストに対してするように》魂を打ち込んでしなさい』(コロサイ3:23、エペソ6:7)というものとして理解すべきだということであった。シャベルを一回土に押し込むといういやいやなす《強制労働》から人が主キリストに対してなす《仕えること》へと変わることができる。それは言うに易く行い難いと答える人もあるかもしれない。使徒のこの言葉は、決して外から、また上から出された要求として言われたものではなく、むしろ自分に授けられるはずの一つの可能性として約束されたものだ。そして現実に、この言葉によって活路が開かれた。すなわち強制労働はどんなことがあっても、強制労働で《あってはならない》、無意味な強制労働から意味の深いキリストへの奉仕と変えることができたのだ。強制労働が主に仕えることとしてなされたことによってである。明らかにこれは言うに易く行い難い。どこか気の向かない、食べるための苦役についている人々は(今日こういう人は実に多いと思うが)日常的にこれを経験している。ただ囚われ人はもっと厳しい形で味わっている」(前掲書)。
 ゴルヴィッツアーの「強制労働をキリストへの奉仕に変える」という体験はすご味がある。彼自身は、別の箇所で「過ぎ行くものに意味を与えるのは、ただ不滅のものだけである」とのアウグステイヌスの言葉に言及している。これが彼の獲得した強制労働における「究極的なもの」であり、この認識が彼を五年間の奴隷的労働に耐えさせたのだと感じられる。パウロは「主によって召された奴隷は、主によって自由とされた。また召された自由人はキリストの奴隷である」(第一コリ7:22)と述べたが、ゴルヴィッアーが体験したのは、捕虜という隷属、奴隷的労働においても、自分たちが「主によって自由とされた」こと、だからソ連の収容所でも、奴隷労働において主に仕えることができた。