建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

内村・不敬事件   出エジ20:1~5

週報なしー45

内村・不敬事件   出エジ20:1~5

(-) 明治期以来、日本の教会が国家神道のもとで神社参拝問題にどのような対応、闘い、抵抗、挫折をしたかに光を当ててくれる一つの視点がある。それは日本の統治下にあった(1910~45年)朝鮮の教会の、神社参拝に対する拒否の行動である。
 日本統治下の朝鮮の教会が、日本政府、朝鮮総督府の強要する神社参拝に対して抵抗した大きな理由の一つは(もう一つは、日帝に対する朝鮮民族の抵抗、省略)神社参拝が祖先崇拝、聖書の十戒が禁じる偶像礼拝に当たる、という立場であった。それゆえ彼らの抵抗は、自分の信仰を賭けたきわめて強硬なものであって、殉教者まで出した(別の機会に)。むろん朝鮮においても神社非宗教論は当局の通達で出されていた。すなわち神社は皇祖(天照大神)や明治天皇を祀る「尊祖崇拝」の儀式であって、法律上神社と宗教とは観念を異にするものであるから、神社参拝は「宗教を強要するものではなく、国民の信教の自由を侵すものではもちろんない」(1925・大正一四年、朝鮮総督府学務局長、ハンソクヒ「日本の朝鮮支配と宗教政策」1988)。よく知られているように、朝鮮神宮の鎮座祭(1925年10月)には、ミッション・スクールは不参加であった。
 これと比べて、日本の教会には、日本の多神教的宗教状況の中で、他宗教の儀式、宗教的活動に参加すること、神社参拝を祖先崇拝、偶像礼拝として厳しく禁じるエートス(その集団の人々に身につき習慣化した価値観・行動)が欠落していたような印象がある。
 「日本のキリスト者においては、明治初年から敗戦まで、神社参拝に対して死を賭した抵抗など、全くみられなかった」(飯沼二郎「天皇制とキリスト者」1991)。
 (二)勅語不敬事件の歴史的背景
 明治期の初め、キリスト教における祖先崇拝、偶像礼拝の禁止についての教えは実は存在していた(土肥昭夫「日本プロテスタントキリスト教史」1980)。すなわちキリスト教は明治初期の時点で祖先崇拝、偶像礼拝に対して闘ったのだ。
 例えば、キリスト教唯一神信仰は、従来の伝統的な民間信仰八百万の神々の信仰からの喜ばしい解放を実現した(内村鑑三「余はいかにしてキリスト教徒なりしか」1895年)。「宇宙には≪一つの神≫があるだけである。 以前に信じていたように、 多数でないことを余は教えられた。キリスト教唯一神教は余のすべての迷信に斧をおろした。余がなしていたすべての誓い怒れる神をなだめようとして余が試みた種々雑多の礼拝形式は、≪一つの神≫を認めることによって今や不要とすることができた。神は一つ、そして多数でないことは、実に余の小さな霊魂に喜ばしい音づれとなった」。
 偶像礼拝、祖先崇拝の禁止について。新島襄(1843~90、同志社創立者)は、アメリカから無事に帰国した自分のために両親が神棚に灯明をあげて拝んだのを見て、人間は木や石で造一つたものを神として拝むべきではないとさとし、神棚を焼き捨てさせたという(上毛教界月報、1935・10)。また新島は故郷の安中を去る時、千木良昌庵にこう書き残したという、「先祖を敬しその名を保有するは子孫の勤むるべきところなれども、これを拝しこれを祭るは誤りとす」(1876・明治8年頃。湯浅与三「新島襄伝」1936、いずれも土肥、前掲書)。安中教会でも鎮守の森の祭礼への寄付・参加を取り止める行動が定着した。
 偶像礼拝の禁止については、横浜公会の「公会定規」が生活綱領の部分で偶像礼拝拒否、十戒厳守を唱えた(1872・明治四年)。「第一条いわく 皇祖土神(天照大神、その土地の神々)の廟前に拝跪すべからざること」(出エジプト記20:3以下「あなたは私(神)のほかに、なにものをも神としてはならない。あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それを拝んではならない(モーセ十戒)。「第二条にいわく 王命といえども道(キリスト教信仰)のゆえに屈従すべからざること」(使徒行伝5:29「人は人間よりも、神のほうに従うべきである」)。「入宗の徒は永く心に誓いてこれらの条を固守すべきもの」とされた(小沢三郎「幕末明治耶蘇教史」、土肥、前掲書)。
 明治政府は、明治22(1889)年、帝国憲法を公布した。その第一条には日本の主権について「大日本帝国万世一系天皇これを統治す」とあって、天皇主権を打ち出し三条には「天皇神聖にして侵すべからず」と唱つて、天皇の存在を神聖化し、四条では「天皇は国の元首にして続治権を総攬し」と、天皇を絶対主義的君主として政治的に位置づけた。また二八条では信教の自由について「日本臣民は安寧秩序妨げず、臣民たるの義務に背かざる限りにおいて信教の自由を有す」と唱つて、条件つきであった。
 しかし、明治期のキリスト教指導者たちは、第三条の天皇神聖化の条項のもつ危険性、天皇の神聖化がキリスト教唯一神信仰と衝突・矛盾するとか、第二八条の信教の自由の条項に抵触しはしないか、といった疑問、問題性に全く気づくことがなかった。むしろ明治初年から社会的に排撃されてきたキリスト教が日本の社会でやっと「市民権を獲得した」かのようにぬか喜びをした。それのみならず、信教の自由をキリスト者に実現したのは、むろんキリスト者による闘いではなく天皇であって、信教の自由を天皇の恩恵の賜物と信じるようになった(憲法発布の日、東京で祝賀会が開かれ、ある指導者は「これでキリスト教は日本の一宗教になった」と語った、その他植村正久「天長節」1889・明治22年、土肥、前掲書)。当時の自由民権運動の思想家中江兆民は人民の権利を、一方の君主や宰相が「上より恵みてこれを与えるもの」であり、権利の範囲と分量など支配者の意思のままになる「恩賜的民権」と、他方のイギリス、フランスなどのように人民が「下より進みてこれを取りしもの」であり、権利の範囲や分量も人民の自由な意思にゆだねられる「恢復的民権」との二種類に区別し、人民自身の努力によって「恢復的民権」へと近づけていくことが必要だと、主張した(中江兆民「三酔人経綸問答」1887・明治20年、松本三之助「明治精神の構造」1991)。指導者たちも「信教の自由」についてそのような見解をふまえるべきであった。指導者たちは二八条の条件づき「臣民たるの義務に背かざる限りにおいて」のもつ事柄の重大性への認識などは全くもっていなかった。一方の明治憲法の「天皇神聖化」(三条)と他方の「臣民たるの義務に背かざるかぎりにおいての信教の自由」(二八条)がやがて衝突する可能性、二〇年後あるいは四〇年後、キリスト教信仰のゆえに神社参拝を拒否することは「臣民たる義務に背くこと」になった可能性、天皇を宗教的な礼拝の対象として強要する可能性を見極めることを怠った。彼らは、キリスト者国家神道に妥協しない場合にはキリスト教の存立が危うくなる危険性を感得しえなかったのだ。
 国家権力、天皇制と対時するキリスト者のかまえは、この時点ですでにくずれていたのだ。言い換えれば国家神道と妥協する教会の姿勢はこの時点で形成されたといえる。しかもそういった事態はすぐにも到来した。
 明治政府は「教育勅語」(1890・明治23年)を発布し、天皇を国民の教育、道徳、世界観を決定する権威をもつ存在と位置づけた(「わが皇祖皇宗・・徳をたつること深厚なり」「わが臣民、よく忠に、よく孝に、億兆心を一にして、世世その美をなせるは、これわが国体の精華なり」)。臣民の忠孝こそ国体の精華。教育の淵源も国体にあり、教育と道徳は天皇中心の日本の国体に基づくもので、「義勇公に奉じ、天壤無窮の皇運を扶翼すべし」これらの道徳を天皇と国のためにすべてをささげよ、とあった。教育勅語は国体宗教ともいうべき宗教文書であった(戸村政博編「神社問題とキリスト教」1976)。「この宣言は、そのまま現人神、天皇が普遍的価値をもつ絶対神であることを主張したものであり、国家神道聖典となった」(村上重良、「天皇制国家と宗教」1986)。明治のキリスト教指導者たちは、教育勅語に対して、キリスト教の立場に立った本質的批判をなさなかった。キリスト教が「忠孝の道徳」に反するとの井上哲次郎らの非難に対しては反論を出したが(内村鑑三柏木義円ら)、その内容は、キリスト教がいかに忠孝道徳を重んじるかという立場のものであって、勅語の本質、天皇絶対化への批判ではなかった。
 宗教的にみて重要なのは天皇礼拝の点であって「教育勅語」が式典で朗読されれる時、教職員児童・学生、市民などに勅語への「敬礼」が要求された事実である。教育勅語を換発(公布)したのは天皇であるから、この勅語への「敬礼」は天皇の宸署(勅語の末尾の署名)への敬礼であった。この時点で敬礼は敬礼(礼拝ではなく敬意の表現)なのか、それとも天皇への「拝礼」(宗教的礼拝を含むもの)なのかが問題となる。拝礼であるとすれば、天皇礼拝がその時点で公的に始まったことになる。実は内村鑑三の不敬事件が起ったのは、勅語に対するこの「お辞儀・敬礼」が天皇への拝礼(天皇礼拝)を含むのではないかとの「ためらい」に起因していた。
 (三)勅語不敬事件
 内村鑑三(1861~1930)が第一中学(後の一高)において教育勅語に対する敬礼を拒否した「勅語不敬事件」が起きた(1891・明治24年1月)。内村鑑三は当時第一中学の嘱託教員であったが、一月の勅語奉載式において、勅語の宸署に対する拝礼をためらい、頭を少し下げただけであった。この行為に対して「国家と元首(天皇)に対する非礼のそしり」が集中し、彼は苦悩のあまり病気で倒れ夫人を病気で失い、職を奪われ、各地を放浪する運命をたどることとなった。この敬礼拒否の理由について事件の二ヵ月後、内村はアメリカの友人ベル宛ての手紙でこう述べた、「お辞儀は礼拝の意味にあらずとは、小生自身多年の間認めきたりしところなり。この日本においてはそれはアメリカにて帽子を取る以上の意味なきことしばしばなり。拒絶(refusua1)にはあらずして躊躇(hesitation)なりし、良心の咎め(conscientious scruple)なりし。それが小生をしてかの瞬間にお辞儀をいな(否)ましめしなり」(1891・明治24年3月6日付け。戸村政博編「神社問題とキリスト教」)。ーー内村が天皇制否定の気持が明確でなかったことは「そのこと(お辞儀すべきかどうか)につき考える時間はほどんと有せざりしなり。それゆえに疑いて躊躇しながら小生は小生のキリスト教徒の良心にとりて安全なる方の途をとれり」 「お辞儀の拒否にあらずして躊路なりし」(ベル宛の手紙)の文面で明らかである(飯沼二郎、前掲書)。このためらいの理由は「良心の咎めなりし」とあるが、「良心」とは、ここでは人間の内面にある善悪を判断する道徳的意識ではなく、西欧の近代市民社会において形成された一つのエートスで、その人間の思想、信条とそれに基づく行動を意味する。ここでは 「キリスト者の良心」すなわち唯一神信仰のゆえに偶像礼拝を拒否させる信仰形態と行動をいう。したがって自分の「良心」が促すものと矛盾した行動を自分がとった場合に一般に「良心の咎め」が起る。内村の場合もこの時それが現実に体験された。内村の心の「良心の咎め」の内容、宸署への「お辞儀を拒否させた」理由は、内村の天皇、その宸署に対する「お辞儀」が「天皇神格化」、宗教的な「天皇礼拝」になりはしまいかとの懸念、あるいは国家元首に対する純然たる「お辞儀・敬礼」にすぎないものか、という懸念ためらいであったろう。内村のそこでの「お辞儀・敬礼」は単純に人間的な敬意に表現とはなりえず、むしろ「天皇礼拝」の意味合いが混入し「お辞儀」即「礼拝」に思えたのだ(この事件に対するキリスト教指導者たちの反応、見解については省略したい)。
 飯沼氏は、この勅語に対する「敬礼」のもつ意味は「後の神社参拝に対する前哨戦」であったとの新しい解釈をする。すなわち政府は神社の存在を「超宗教的存在」と位置づけたので(これを国家神道という)政府・国家が強要する神社参拝は、各宗教における宗教的行動「礼拝」には該当せず、国民としての儀礼「敬礼・お辞儀」である、したがって参拝強要は、他なる宗教の押しつけには当たらず、信教の自由も侵害しない、これが国家側の「言い分」であったし、病床にあった内村を説得にきた校長の発言であった。内村はそれでは「お辞儀をします」と返答した。内村鑑三勅語不敬事件における行動は、朝鮮のキリスト者総督府の強要する神社参拝を「祖先崇拝、偶像礼拝、異民族の宗教儀式の強要とみなして」拒否した、朝鮮のキリスト者による参拝拒否の行動ほど徹底したものではなかった、といえよう。内村が「当局の論理・見解」を最後には受け入れたからである。しかし時すでに遅く、彼は罷免されていた。
 そうはいっても、内村鑑三が経験したあのためらいの時の戦慄は、日本にキリスト教が根づこうとしていた徴であった。ベル宛の手紙のさらに4ヵ月後、内村は、アメリカの友人ストラザース宛の手紙でこう述べた、「友よ、君は破れし家庭(妻の病死)、衰えし健康、はなはだしき誤解、かくまで愛する国民による迫害、それが一度に頭の上に襲いかかりし状(状態)につき、ある観念を抱きうるなり。政治的自由(Liberty)と信教の自由(freedom of conscience)とはいかなる国においても、その献身せる子らの間に何かかかる試練なくしては購われざりしことを。しこうして僕を神がかかる重荷を担うために選びたまいしことを感謝すべきならずや!友よ、僕は今他のいかなる時以上に君の祈りを要するなり」(1891・明治23年7月9日、越前高田。戸村、前掲書)。
 明治の一人のキリスト教指導者、内村鑑三の担った重荷、勅語不敬事件をとおして、日本におけるキリスト者の信教の自由のテーマ、偶像礼拝の禁止が異教の国においてもつ信仰的な意味旧約の預言者たちの偶像礼拝との闘い、初代のキリスト教徒たちが皇帝礼拝を拒否して殉教したこと教したこと、朝鮮のキリスト者の殉教など、が現代のキリスト者に少し明らかになる。