建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

自由民権運動とキリスト教 2  ルカ4:18

1996-27(1996/11/3)

自由民権運動キリスト教 2  ルカ4:18

 指導的なキリスト者らが自由民権運動をどうみていたをみたい。彼らの自由民権運動との関わり方は、二つが考えられる。第一に、キリスト教の「自由」についての理解(新約聖書では「自由とは罪からの解放」である)と民権主義者の、幕藩体制、専制的藩閥政治からの解放としての(天賦人権論的)自由の理解との「相違がありながらも批判的にその運動を擁護するのか」。第二に、両者の自由についての理解の「相違のゆえにその運動から距離を保ちつつ傍観者的に論評するか」である。
 新島襄(1843~90、群馬県安中藩士の出身。明治維新の4年前、21才の時、日本を脱出しアメリカに渡る。熱心な会衆派信徒、ハーディーの助けでアーモスト大学、アンドヴァ一神学校に学ぶ。明治4年当時渡米してきた岩倉具視一行を助けて、欧米諸国の教育事業を調査・報告。31才の時に帰国・明治7年。同志社英学校を設立・明治8年。そこから組合教会の指導者、小崎弘道、金森通倫、海老名弾正、柏木義円、ジャーナリスト徳富蘇峰らを輩出した)は、民権運動の旗手板垣退助が遊説先の岐阜で刺客に襲われて負傷した時いたく同情して(1882・明治15年4月)、その年の年末に板垣に見舞い状を出して、こうしるしている。
 「閣下にはご存知の通り、小生は多年耶蘇教を信じ、かつ該教皇張(伝道のこと)をもって、一生の志願となし候間、喋々該教を説くは、決して文化を進むるの道具と見做すに非らず。すなわち文化これによらざれば、興らざるを信ずるなり。これすなわち文化の源泉なり。ゆえに(小)生は《この罪悪汚穢(おわい)に染みたる人類の心》をして、一洗せしめ、《わが東洋に新民を隆興せしめんと存じ候。新民すなわち新心を抱く者なり》。《人にしてこの新心なければ、西洋百般の技芸なんの益する所あらん。学術なり、政治なり、すべて私欲私心の心の奴隷となり、早晩腐敗に趣くは、史上歴々見るべきなり》。……わが日本の今日かくのごとく振わざるも、やはりこの新心なき所以なり。しからばいかにしてこの新心を得べき。すなわち造物主宰の則に順うにあり。耶蘇の教えを奉ずるにあり。世界幾多の宗教あるも、この新心を醸出すべきものは、耶蘇教のみ。…《人この教えを奉じていよいよ進まば、人類の造物主宰より賦せられたる幸福は、いよいよ増すべし。工業なり、商法なり、財産なり、自由なり、学術なり、民権なり、すべてその人の有する所たるべし》。……閣下にして、今高知にあるは、実にこの新心を養うの時ならん。閣下にして、わが東洋改良をもって自任せらるるならば、まず第一に閣下の御心を新たにすることこそ急務たり。いずれの点よりも御主張遊ばさるるや。閣下にはもはやその新心を得られしや。これを得るは、すなわちこれを信ずるにあり。信じてしこうして後新心は発生すべし。新心すなわち人類の活霊、文化の泉源なり」(1882・明治15年12月「新島襄書簡集」1954)。
 新島襄明治維新当時10年間アメリカ市民社会を体験した人間として、新しい近代日本の建設「わが東洋に新民を隆興せしめん」に情熱を燃やした。新国家の建設において一番肝要なのは「新しい政治体制の構築」よりも「新しい心を抱く人間の創造」とみた。そしてこの「新しい心」はキリスト教を信仰することによってのみ与えられるというのが、新島の立場であった。この主張は欧米の政治社会制度、憲法の制定とそれに基づく民選の国会をつくることで新日本の構築を考えていた自由民権運動とはどこかに決定的な異質性がある。というのは、政治社会制度の根底、「文化の源泉」への問いを新島は発しているからだ。「文化」すなわち「工業、商業、財産、自由、民権」はいまだ「罪悪汚穢に染みたる人類の心」「私利私欲の奴隷の心、早晩腐敗におもむく」からの《解放・自由》という大問題を取り上げていないからだ。新島は自由民権運動にもっと理論的な支援をおくってもいいのではないかと感じられる。あまりに傍観者的な見解に聞こえるからだ。
 小崎弘道(1856~1938、植村正久と並ぶ明治~大正期のキリスト教の指導者。熊本藩士の子に生まれ、熊本洋学校に学んでいた時、花岡山の盟約に参加、明治9年。同年受洗。後同志社に入り、新島襄の感化を受ける。卒業後東京に霊南坂教会を設立。後に同志社社長、YMCA会長、植村らと「六合雑誌」創刊・明治13年。著書「政教新論」1886・明治19年、「国家と宗教」1912など)は、「明治十四年政変」(1881・明治14年10月)について論評している。
 「明治十四年政変」は周知のように自由民権運動の大きな山場であった。明治13,14年は民権運動が各地で一段と盛り上がった時期で、民権主義者らは国会開設要求署名24万名を集め、片岡健吉らが国会開設上願書を政府に提出した。憲法案起草も活発になされていた。おりしも明治14年7月、北海道開拓使長官の黒田清隆が、官有財産を黒田と同郷(薩摩)の五代友厚(関西貿易)に払下げを決定した。これを東京横浜毎日新聞の沼間守一(民権主義者のジャーナリスト)が新聞で暴露、かくて払い下げ反対、大蔵卿大隈重信の罷免の声が一段と強まり、政府は一大危機に直面した。伊藤博文ら政府は、大隈を罷免し、開拓使払い下げを中止。そして「明治二三年国会開設の勅諭」を発表し(同年10月)、国民の政府批判と民権運動の高揚を押さえ込もうとした。しかもこの「勅諭」の末尾には次の威嚇の言葉がしるされていた。「…もしなおことさらに躁急を争い、事変を煽し国安を害する者あらば、処するに国典もってすべし」(色川大吉「近代国家の出発」)。
 政府は天皇という権威を持ち出して、天皇渙発した勅諭によって一方ではその「聖意」を国民に明らかにして国民を籠絡し、他方では以後政府に激しい抵抗をする政治団体民権主義者らを容赦なく法によって厳しく弾圧すると脅したのだ。
 小崎はこの「政変」について論じている、「聖意のかたじけなきを懷い感慨おくあたわざるなり」、この効論の発布は「気運のしからしむる所なりといえども、今上皇帝の英武にましまして良相賢臣の計画その機に当りたるによる。余輩草莽(そうもう、在野の人)の野民等何そ聖意のかたじけきを奉体して、国会開設の準備に努めないでおられようか」(「国会開設の勅諭」1881・明治14年11月)。小崎の見解には「効語渙発」自体が全国規模の民権運動の地道な積み重ねの「ある種の成果」であった点が全く欠落している。また「勅語渙発」が伊藤博文井上毅ら政府首脳による国民世論をなだめ民権論者弾圧の手段としての役割を果たしている点を全く視野に入れていない。それでいて「聖意のかたじけなさを懐い」「今上皇帝の英断」と天皇賛美に走り、「良相賢臣の計画その機に当りたる」と伊藤らの賛美までやってのけた。
 小崎は自由民権運動に共鳴している点ももっている。薩長藩閥政府の不公平をあげて、専制的藩閥政治より立憲政治への移行を歴史の流れとみなした。民権運動が強力に展開されたのは、板垣退助のような誠実の士が存在し、自由は天性の真理、民権は人性の真理とみなして、これを究極の目的として民権論者が運動をしているからだと考えた(「政党の団結」「国会開設の勅諭」など、1881年、土肥昭夫「日本プロテスタント史」)。他方小崎はいう、民権論者が「世上の木鐸(世の指導者)を任ずるも、道義の念薄く人欲の私に制せらるればこれを独立の人というべきか、これを自由の人というべきか、《これらの人士は直指して私欲の奴隷》と呼ぶも不当ではない」。この点では小崎は師の新島の立場(板垣退助への前掲書簡)を踏襲している。ここの「私欲の奴隷」は、板垣を含めた民権運動家は、自分たちにも薩長藩閥政府の特権を公平に分与せよという「私欲」から運動を起こしたとの「世評」などを指していよう。民権運動が「私欲からの解放」という点でいまだ充分自由でない、これが小崎の民権連動への「批判の部分」である。小崎は「私欲からの解放・自由」を実現するのは、民権運動自体ではなく、キリスト教の信仰によってのみだと考え、かつキリスト教の人間理解から、自由民権論を理論づけることができるという。
 「キリスト教にては、人は肉体のみにあらず、永遠無窮朽ちざるの霊魂を有すとなす。これすなわち人に価値を定めがたきの価値を与える所なり。神は宇宙の主宰にて宏大極まりなけれども、なおこの最爾たる一地球の一罪人の悔い改むるを見て喜びたまえり。…人民一般にかくのごとき思想あらば、一人にありては自重の精神となり、社会に対しては一己人の自由権利を重ずるの風習となるもまた宜(む)べならずや。かつ人類はすべて罪人にして一人として己れの功績によりて救を得るものなく、皆キリストの贖罪により信仰にて義とせられ初めて救を得るとは、これ自由平等の思想のよりて起こる所なり。人間の前においてこそ貴賎尊卑の差別あれ、神の前には皆等しく罪人なり。しからばすなわち卑賤の一民たりともあにこれを蔑視するをえんや。王公貴人たりとてあに殊更にこれを尊崇すべけんや。これ欧米において自由権利の思想のよりて起こる大原因なり」(「政教新論」1886・明治19年)。
 ルカ4:18には「主は打ちひしがれた者らに《自由》を得させる」とある。新約聖書では自由は、罪からの解放(ロマ6:18以下)、律法からの解放(ガラ2:4)、死からの解放(ロマ8:21)を意味していた。この自由はどのようにして実現するのか。(1)御子によって。ヨハネ8:36 「もし御子があなたがたに自由を得させるなら、あなたがたはほんとうに自由な者となる」。(2)福音への召し、ガラ5:13「あなたがたが召されたのは、自由を得るためであった」。(3)このような自由は、専制的な政治の現実の中で、思想の自由、信教の自由、結社の自由を要求する民権主義的運動との連携を可能にしまた運動をとおして実現する。中江兆民のいう「恢復的権利」である。キリスト教の主張する「自由」と民権主義者「自由」とのより深い連携が存在してもよかったと思う。