建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

自由民権運動とキリスト教 3 マタイ18:31以下

1996-29(1996/11/17)

自由民権運動キリスト教 3 マタイ18:31以下

 「自由民権の思想を支える思想が、リベラル・デモクラシーよりはむしろナショナル・デモクラシーに近いものをもっていたことは、自由民権思想に私的な市民的価値に対して公的な政治的価値を優先させる価値意識を特徴として与える結果となった。ここにいう政治的価値の優位とは、第一に、個人の利益よりは、個人の所属する集団の全体的な利益が重視されることを指す。…第二には、このような集団的利益の形成や集団的統合をめざす政治機能が、他の社会的機能、例えば経済・宗教・学問・芸術などよりも重視される傾向をいう」(松本三之介「明治精神の構造」1993)。
 それでもすぐれた民権主義者は、近代的な自立した人間観の形成をも試みた。
 中江兆民(1847~1901、土佐藩の下級藩士の出身、明治4~7フランス留学、帰国後「仏学社」をつくる、14年「東洋自由新聞」創刊、15年「民約訳解」出版、20年「三酔人経綸問答」出版、23年の第一回総選挙で議員に当選、翌年辞職。34年「一年有半」「続一年有半」出版)は自由権を二つに分けて説明した。一つは「心思の自由(リベルテー・モラル)」で、「わが精神心思の絶えて他のものの束縛を受けず、完全に発達して余力なきをいう」。精神の自由、自由な精神を意味する。もう一つは「行為の自由(リベルテー・ポリチック)」で、公私にわたる自由権をすべてふくむものだという。これはいわゆる市民的政治的自由権である(「東洋自由新聞」第一号、1881・明治14年、松本、前掲書)。兆民は両者をこう説明した、
 「《心思の自由》はわが本有の根基なるをもって、第二目《行為の自由》より始めその他百般自由の類は皆これより出で、およそ人生の行為、福祉、学芸みなこれより出ず。けだし吾人の最もまさに心を留めて涵養すべき所このものよりなおなかるべし」(前掲紙)。兆民のいう「心思の自由」は自由な精神の機能を意味しているが、重要なのは、この心思の自由が自己の存在の外側にあるものではなく、あくまでも自己の存在(「本有の根基」)に根ざす自由な精神そのものであって、「行為の自由」をはじめすべての自由な活動を支えているもの、主体と一つとなったものであった点である。兆民はこれを「浩然の一気」にたとえて、ある種の精気、ダイナミックな活力とみなし、またある現実を受け入れ黙認するだけで「進取」の気持のない場合、そこに自由がないと考えた。
 さらに、この自由は「涵養すべき」ものであった。「自由の涵養」とは、主体的なものにとどまらず、政治的社会的自由においても実現すべきものと考えた。すなわち「三酔人経綸問答」において主張された「恩賜的民権」と「恢復的民権」との関連においても、
 「たとい恩賜的民権の量いかに寡少なるも、その本質は恢復的民権と少しも異ならざるがゆえに、 吾儕(ごせい)人民たる者、善く護持し善く珍重し道徳の元気と学術の滋液とをもってこれを養うときは、…かの恢復的民権と肩を並ぶるに至る」(「三酔人経論問答」1886・明治20年)。
 植木枝盛中江兆民の見解を読んでみると、彼らはこの見解をどのように自分の中で血肉化した思想としていたか、生きたか、を考えざるをえない。この見解の、いわば思想的背景が必ずしも明確でないので、生命力をもつ思想にはもう一つ到達していないようだ。
 さてキリスト教の指導者たちの民権運動に対する態度をさらに取り上げたい。
 小崎弘道は1886・明治19年に「政教新論」を出版して、その中で民権運動についていくつか言及している。
 小崎は、政治体制を改めて立憲制度をつくる、法律の完備、財政の整頓、物産(産業)を興し商業を繁栄させること、これらすべてに賛成する。「しかれども人はパンのみをもって生活すべきものにあらず、国は形而下の事のみをもって治まるべからず。…いかに政治を改良し法律を完備するも、一人の罪人も改心せしめむるあたわず、…風俗の頽廃は挽回すべからず。人心の萎縮は振作するを得ざらん。いわんやこののみにては社会永久の進歩を期すべからざるにおいておや」という(第七章 宗教道徳の必要)。宗教家として政治的社会的改良に否定的である。
 小崎は自由の理解についても、民権運動に批判的である。
 「わが国の志士多くは人生に高尚の目的幸福あるを知らず。政治をもってその目的のごとくなし、自由をもってその最大幸福のごとく思惟す。…政治とは何ぞ、人生相生くの法、社会を整頓し人々の権利を保護する手段の謂いにあらずや。自由とは何ぞ、吾人の目的を達しその幸福をするの自由を謂うにあらずや。政治自由はただ吾人の目的幸福を全うする手段方法のみ。…吾人かの軽躁なる民権家中には、まま漠然自由をもって何か採るべき実物あるいは宝貨のごとく思惟し、汲々これを獲んと勉め、しこうしてこの自由なる宝貨は政府が独り専有せりとなし、政府を倒しこれを掠取せんと欲する者あり。国にかくのごとき思想を有する者多き間は、政府の改良もとより望むべからず。真正の自由は容易に得ざるなり。真正の目的を有する者、よく適当の手段方法を用いるをなす。適当の目的を知らずしてただその手段方法のみを求める者、あに適当なる手段方法を得ることをえんや」。小崎はこのような政治、自由の偏重は儒教の影響ではないかとみる。「わが国人はこれまで儒教なる現世の宗教に教育せられ、ただ政治の尊むべきのみを知りて、これが吾人の幸福を全うする一手段一方法たるを知らず。これ目下わが国に《政治の守銭奴》多き所以なるか」。
 さらに小崎は、キリスト教こそ「個人の価値を尊重する」宗教だと主張する。
 「この外国民たるの思想、一己人(個人)の価値を重んずるの精神などは独りキリスト教国にのみ見る所にして、他に見ざる者(もの)なり。……キリスト教をもって欧米文明の大原因となすは、これがその文明の諸元素に一種独特なる精神生命を附与し、全社会を調和浸潤するがゆえなり。
 何をかキリスト教と云う。ネアンデル日く『我輩はキリスト教をもって、人性の深底より自然に発生したる教えとせず。すなわち《天より降りたる能力》となす(強調、小崎)。この能力はその本体その起元ともに遥か人力の得て製出すべからざる上に出で人類に《新たなる生命》を附与し、これをその内部より変化せしめんために与えられしものなり』と。氏の云うところキリスト教をもって能力、動力、生命、精神となすにありて、これをもって単に教理教訓となさざるなり。聖書の示す所またこれに異ならず、日く『天国はパンのごとし、婦(婦人)これをとり三斗の粉の中に蔵せば、ことごとく脹出すなり』(マタイ13:33)。また日く『この福音はユダヤ人を始めギリシャ人すべて信ずる者を救わんとの神の大能たればなり』(ロマ1:16)。また信者が社会に与える影響を云えるには曰く『璽曹(じそう、汝ら)は地の塩なり…璽曹は世の光なり』(マタイ5:13以下)と。それキリスト教は一己人(個人)に対してはその心を悔改感化せしめて、これを新たなる生命精神を附与し、これ新人となすにありとす。社会に対するもまたこれに同じ。その風俗慣習を改良し、これに改進活動の精神生命を附与し、これをもって活世界となすにあり。その作用パンの麦粉におけるごとく、これが行わるる社会を漸次改良開発せしむ。また塩の食物におけるがごとく、ただ社会の腐敗を止め、これを活かすのみならず、これを調和修理して無上の美味を与うるなり。これキリスト教の行わるる所には、他国に見えざる一種の精神生命ありて、その社会を総括活動せしむる所以なり」(第十章 キリスト教と文明)。
 人間の自由がどのように実現するかを考えた時、「人類はすべて罪人にして一人として己れの功績によりて救を得るものなく、皆キリストの贖罪により信仰にて義とせられ、初めて救いを得るとは、これ自由平等の思想よりて起る所なり」(小崎、前掲書、第十一章 キリスト教と文明 二」)は、民権主義者の自由論より説得力があると思う。
 他方、小崎は、信教の自由がまだ実現してない時点で、植木枝盛らが憲法草案を書きはじめていた事実(明治14年)には目もくれなかった。キリストの贖罪による罪(私欲)からの解放は、政治的領域でも、信教の自由の要求として、民権主義者と手をつないで、共に運動してもよかった、と感じる。民権主義者の「自由の理解」も、人間の欲望や罪からの解放を射程に入れていなかったようだ。同時に新島襄、小崎、植村正久らは、民権運動のもつ法的政治的自由の把握とその実現という点を射程に入れていなかった。両者は現実には「あれかこれか」の形になったが、相即して連携でたはずである。
 民権主義者には「帝国憲法」の発布・渙発とその内容は大いに不満足であったが、これに対してキリスト教の指導者たちは、帝国憲法発布に泣いて喜ぶような反応した。その原因も、民権運動にコミットしていないからではなかったか。 続。