建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、異邦人に対する神の怒り ロマ1:18~32

1997-2(1997/1/12)

異邦人に対する神の怒り  ロマ1:18~32 

 「なぜなら、《神の怒り》は不義をもって真理を阻止する人間たちの、あらゆる無神性と不義とに対して天から啓示されるからである。なぜなら神から(によって)認識できる事柄は、人間たちに明らか(啓示された)からである。神ご自身がその事柄を彼らに知らせたもうたからである。なぜならこの世界の創造以来、神はその不可視性において理解可能なものとなり、また神の永遠なる力と神性とは被造物に知覚されているからである。それゆえ彼らは弁解することができない。なぜならたとえ彼らが神を知つているにしても、神として栄誉を与えることも感謝することもせず、むしろ自分の思考によって空無化されまた自分の無知なる心によって蝕とさせられたからである。彼らは賢いと主張するものの愚かになった。彼らは朽ちない神の栄光を、朽ちゆく人間、鳥、獣、爬虫類のかたちの姿に交換してしてしまった。それゆえ神は彼らをその心の欲望において、その体が自己自身によって辱められる汚れに《渡されてしまった》。しかも彼らは神の真理を偽りへと転倒し、創造者の代わりに、被造物を崇拝しそれに仕えた。創造者こそ永遠に讚美すべきかな、アーメン。それゆえ神は彼らを恥ずべき欲望に《渡された》。なぜなら彼らのうちの女たちは自然な交わりを不自然なそれに転倒させたからである。同じように、男性たちは女との自然な交わりをやめて、互いに情欲を燃やしあっている。男性たちは男性と恥ずべきことにふけり、その逸脱に対して当然の報いを自分自身に受けた。彼らは神認識を尊重することを知らなかったので、神は彼らを抑制のない気持へと《渡された》。それで彼らは許されぬことをなすに至った。すなわち、あらゆる不義、悪、貪欲、惡意、嫉妬、殺人、不和、悪だくみ、狡猾に満ちたものとなった。彼らは中傷する者、誹謗する者、神を憎む者、暴力をふるう者、傲慢な者、大言壮語する者、悪をもくろむ者、親にさからう者、無知で定見がなく、愛に欠けた、無慈悲な者となった。このような者たちが死の咎をうけるとの神の法規を彼らは知つていたが、同じようなことをなしている。彼らはそのようなことを行なうばかりでなく、人がそれを行なうのに対して拍手をおくってさえいる」(ケーゼマン訳)。
 この箇所では、人間一般、異邦人に対する「神の怒り」が大きく分けて、3つのポイントで示されている。(1)神と人間との正しい関係が破壊・転倒した形態としての人間の存在的空無化、偶像礼拝。(2)男女の自然な、正しい関係の破れとしての同性愛への転落。(3)すべての人間と人間との関係の破れた姿、人間の「罪惡表」。
 (1)神と人間との正しい関係の破綻。「神から(神によって)認識できる事柄は人間たちには明らかである。それを神が人間に知らせた」(19節)、「神の世界創造の時以来、神はその不可視性によって理解可能なものとなり、神の永遠なる力と神性とは被造物に知覚されている」(20節)。20節をミヘルはこう訳す「神の不可視的な本性は、それはまさしく神の永遠なる力と神性なのであるが、世の創造以来《理性をもって》《神の創造の業において》認められている」。ユダヤ人でない異邦人も、実は《神を知つている》、特に《神の不可視性、永遠なる力と神性とは人間に知られている》との見解は驚くべきものである。異邦人の罪は「神を知らない」という点にあるのではなく、むしろこの知られた神への謀反にあるとパウルはいう。
 21節。「神を知る」ことは(21節前半)人間が自分自身の支配者ではなく、神に創造された「被造物」(20節、「世界創造」「被造物」)として、神との正しい関係をもつ、すなわち「神をあがめ感謝する」ことを意味する。しかし人間はこのような神認識をしていない。
 ここに第一の破れが指摘される。「彼らは自分の考え・思想によって空無化され(ミヘル訳では「空にされ」、松木訳「虚無」)自分たちの無知なる心に蝕とさせられた」21節。神との本来あるべき生きた関わりから脱落した人間の姿である。「自分の思想によって空無化される」は8:20の「被造物は空虚に服した」を想起させる。「自分たちの無知なる心に蝕とせられた」は、単に「心は暗くなった」(松木訳)よりも、マルチン・ブーバーの「神の蝕」という思想、すなわち人間のエゴ的な思考・自我が、神と人間との間に入り込み、太陽のような神の、人間への働きに日蝕の状況をつくり出した、をふまえた訳(ミヘル、ケーゼマン訳)。「空無化」も「蝕」も共に「破れた人間の様」である。したがって22節前半「彼らは賢いと主張しているが、愚かとなった」。
 第二の人間の破れは「偶像の製作」すなわち「偶像礼拝」である。「朽ちない神の栄光を、朽ちゆく鳥、獣、爬虫類の似姿と交換した」23節。この箇所は詩106:19、20「彼らはホレブで小牛をつくり、鋳物の像を拝んだ。彼らは神の栄光を草を食らう牛の像と取り替えた」、エレミヤ2:11「その神を神でないものと取り替えた国があるだろうか」を想起させる。偶像礼拝の最大の問題点は「創造者と被造物との関係の転倒」すなわち「彼らは創造者の代わりに、被造物を拝みこれに仕えた」25節ということ。
 そして以下で「異邦人に対する神の審判」が述べられる。それは三度にわたって「神は彼らを…に渡された」と表現されている。
 第一に「それゆえ、神は彼らをその心の情欲(エピトュミア)によって、自分の体を自分自身によって辱める汚れに《渡された》」24節。ここの「自分の体を自分自身によって辱める汚れ」の内容は「性的な汚れ」である。姦淫、習慣化した遊女を買う淫行行為のイメージがある。旧約聖書特に、ホセアやエレミヤにおいて偶像礼拝は性的な淫行とは表裏一体であった。また旧約聖書外典ソロモンの知恵でも「偶像を考えつくことから姦淫が始まる」という(14:12)。パウロは人間の罪と咎を性的なものと関連づけることで、その咎の実態はよりリアルに把握している。「渡された」は、パウロの、キリストの苦難を示す重要語。他の支配にまかす、裁判、十字架、死に渡す、間接的結果的に見捨てる、という意味。ギリシャ、ローマ圈に習慣化した人間の淫行行為を、パウロは神による審判の結果ととらえている。
 第二に「それゆえ神は彼らを恥ずべき欲望(パトス)に《渡された》。なぜなら彼らのうちの女は自然な交わりを不自然なそれに転倒させたからである。同じように男性たちは女性との不自然な交わりをやめて、互いに情欲(オレクシス)を燃やしあっている。男たちは男と恥ずべきことを行い、その逸脱に対する当然の報いを自分の身に受けた」。26、27節。24節で指摘された「汚れ」は、自然な男女の性的な交わり、これは創世2:24「人はその妻と結びあい、一体となるのである」によれば、自然的ばかりでなく神の定められた神聖なものでもあって決して「恥ずべきもの」ではないが、その性的な関係も「倒錯したもの」となった。それが、女性が男性との「自然な交わり」を女性同士の、男性が男性同士の「同性愛」への転倒・倒錯である。同性愛は当時のギリシャ、ローマ世界では一般に広がった習慣であったが、旧約聖書では「憎むべきこ」とされ(レビ18:23)、ユダヤ教も批判した「性の倒錯」(ソロモンの知恵)。パウロは同性愛を批判し(「男色」第一コリ6:9)、ここでも「恥ずべき欲望」と呼び(26節)「汚れ」24節とみなした。しかも深刻なのはこの性の倒錯は、神による審判「渡された」結果であったというパウロの見解である。
 第三に「彼らは神を認識することを尊ぶことを知らなかったので、神は彼らを抑制のない気持に《渡された》」。神との関係の破れ、偶像礼拝から、男女の関係の破れ、同性愛を経て、今やこの破れは人間対人間の関係全体へと拡大、深化させられている。先のソロモンの知恵も「偶像礼拝」から人間のさまざまな惡業が起きたとみた。「彼らは生活も結婚も清く保たず、裏切って殺し合い、姦淫を犯しては苦しめ合う。流血と殺害、盗みと偽りが至るところにあり、堕落、不信、騒動、偽証、善人への迫害、恩恵の忘却、魂の汚染、性の倒錯、結婚の乱れ、姦淫、好色が至るところにある」(14:24~26)。
 ここでパウロが述べた21にわたる悪行の項目は、同時代の「ソロモンの知恵」よりもはるかに徹底した描写となっている。これは「人間存在、人間社会の実相」ではなく、パウロはこれらを人間の「罪悪表」として挙げ、告発している。「これが人間だ」というのではなく、神との関係が破れた状況で起きた悪の華、人間に対する神の怒りの審判「神は彼らを渡された」の実態。これが歴史、社会の中で人間が企て、もたらした罪惡の実態であるとパウロは裁定した。以上が異邦人の「無神性と不義に対する神の怒りの啓示」である。18節。