建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、霊における割礼  ロマ2:12~29 

1997-3(1997/1/19)

霊における割礼  ロマ2:12~29 

 「なぜなら律法なしに罪を犯す者は、 また律法なしに滅びるであろうし、律法のもとで罪を犯す者は、律法をとおして審判をうけるからである。なぜなら律法を聞く者ではなく、むしろ律法を行なう者が《義と宣告されるであろう》からである。したがって《律法を所有していない異邦人》が自ら律法(の要求)を満たすならば、彼らはたとえ律法を所有していなくても、《彼ら自身が律法なのである》。すなわち彼らは《律法の業が自分の心にしるされている》のを提示する。また自分の良心と互いに告発しあるいは弁護しあっている思いとは、そのことの共同の証人でもある。私の福音によれば、神がキリスト・イエスをとおして人間の隠されたことを判定なさるであろうその日に、それを提示する。
 しかしあなたが《ユダヤ人》と称し、また律法を頼みとし、神を誇り、御心を知り、律法より教えられ、 自ら盲人の導き手、暗黒の中の光、愚かな者たちの教育者、幼児らの教師と信じているなら、他の人を教えるあなたが自分自身を教えないのか。盗むなと説教するあなたが盗むのか。姦淫するなと言うあなたが姦淫するのか。偶像を憎むあなたが宮から盗むのか。あなたは律法を誇るが、律法違反をとおして神に汚名を着せるている。なぜならこう書かれているからである、『神のみ名はあなたがたのゆえに異邦人の間で汚されている』(イザヤ52:5)。                  しかしながらもしあなたがたが律法を守るならば《割礼》は役に立つ。しかしあなたが律法の違反者になるのなら、あなたの割礼は無割礼となってしまう。さらにもし無割礼の者が律法の法規を遵守するなら、無割礼は割礼とみなされないであろうか。元来無割礼であってしかも律法を満たす者は、律法の文字(条文)と割礼をもちながら律法に違反するあなたを審くであろう。なぜなら目に見える者がユダヤ人なのではなく《ほんとうの割礼は肉における目に見えるものではない》からである。むしろ隠れたユダヤ人こそがユダヤ人であり、また律法の条文によらない、《霊における心の割礼》が割礼である。その賞賛は人間たちからではなく、むしろ神からくる」(ケーゼマン訳)。
 パウロはここでユダヤ人と異邦人とが対等に神の審判の前に立たされると語る。2:9~11。そこにはユダヤ人の「律法ゆえの優越性」は認められていない。「神には人を顧慮したもうことがないからである」(11節)。問題となっているのは、罪を犯す状況と審判の基準に区別があるだけである。「律法を所有していない異邦人」(14節)は「律法なしに罪を犯す者」であって、「律法なしに減びるであろう」。ここの動詞「滅びるであろう」「審判を受けるであろう」は受け身の未来形で神の業を間接的に示している。他方「律法のもとで罪を犯す者は、律法をとおして審判を受けるであろう」(12節)。
 この区別は重大な相違点「律法を聞く者たちと律法を実践する者たち」に転調される(13節)。そして《神によって》「義と宣告されるであろう」は、やはり受身の未来形で、神からのプレゼントとして義(ディカオスネー)を持つという意味。3:20、5:1、9など。パウロは厳密に「律法を所有する者、律法を聞く者」が神に義と宣告されるのではない、「律法を実践する者」が義と宣告される、という。「律法の実践」には律法を知つていることが前提とされるはずであるから、律法の実践によって義とされる者たちも「ユダヤ人」に限定されることにならないだろうか。
 これに対してパウロは、「異邦人と律法」について述べる。異邦人はなるほど「律法を持つていない」が(14節)、第一に異邦人においては「律法の業が彼らの心にしるされている」。ここはアルトハウス訳「律法によって要求された業が彼らの心にしるされている」のほうがわかりやすい。第二に、異邦人においては「彼らの良心」と内面的な葛藤すなわち「互いに告発したり弁護しあったりする思い」(15節)というものが存在していて、これらが《異邦人が律法を所有している》ことの証人である。したがって「彼ら自身が律法である」(14節)ということが成立する。そこで当然のこととして「異邦人が自ら(「生れつき」アルトハウス)律法の要求を満たす」という事態が存在する、とパウロはみている。この見解に立つと、ユダヤ人がモーセの律法として神から受けた「歴史的な律法」を所有しているユダヤ人の優越性は吹き飛んでしまう。重要なのは「律法を聞く」かどうか、律法を「所有する」かどうかではなく、「律法を行なうかどうか」がだからである。
 かくして2:17以下でパウロは「ユダヤ人批判」を展開する。その批判の中心ポイントはユダヤ人が「律法を誇るが、(肝腎の)その律法に違反していることをとおして神に汚名を着せている」点である(23節)。
 そしてパウロは律法の重要な規定である「割礼の問題」を取り上げる(25節以下)。パレスチナ以外の教会、異邦人の教会、そこにはユダヤ人(へレニスト)と異邦人との両方のキリスト者がいたのであるが、そこにエルサレム教会の「ヤコブ派」に属す人々(ガラテヤ2:12)「(割礼の)傷をつけている人たち」(ピリピ3:2)がやってきて、「異なった福音」(ガラテヤ1:6)すなわち異邦人も「割礼を受けねば救われない」という誤った立場(行伝15:1)をさかんに宣伝して、パウロの信仰のみによる救いの立場を誹謗して異邦人教会をかきまわす状況も起きていた。したがってパウロとローマのキリスト者集団にとっても「割礼問題」は避けては通れない焦眉のテーマであった。
 パウロはここで「割礼の問題」一般ではなく「キリスト者の割礼」を取り上げているようだ(アルトハウスの注解)。割礼は本来イスラエルユダヤ人を割礼のない異邦人から分離し、ユダヤ人が神との契約(律法)の民であることを示す礼典、しるしであった。しかしパウロユダヤ人、およびユダヤキリスト者の優位、特権などを全く無視して、ユダヤキリスト者を異邦人キリスト者と同じ条件のもとにおく。ユダヤキリスト者の間で、律法が真剣に守られていない状況において、この律法遵守のしるし、割礼はどんな役にたつのか。そのような場合割礼は無価値であるばかりでなく、かつもはや存在しないといえる。彼によれば割礼は律法を所有する「しるし」ではなく、律法への真実の、律法を守ることのしるしであり、神への服従のしるしである。「元来無割礼でありながらしかも律法を満たす者(異邦人キリスト者)は、(律法の文字と)割礼をもちながら律法に違反するあなた(ユダヤキリスト者)を審くであろう」(27節)。ポイントはあくまでも律法を守ることにある。だから無割礼の異邦人キリスト者が律法の規定を遵守するなら、無割礼の彼は神の前で割礼という栄誉のしるをもっことになる。「その無割礼は割礼とみなされないだろうか」(26節)。逆に「割礼のあるユダヤキリスト者が律法に違反するなら、彼の割礼は無割礼となってしまう」(25節後半)。
 パウロはもはや「ユダヤ人と異邦人、ユダヤキリスト者と異邦人キリスト者の相違」こだわらず、「目に見える者であるユダヤ人と隠された者であるユダヤ人」(アルトハウスの訳によれば「外面的な者であるユダヤ人と内面的なユダヤ人」)、「肉における目に見える割礼と霊における心の割礼」の対比をいう(28、29節)。
 パウルは「心に割礼を受ける」という表現を、申命10:16、30:6、エレミヤ9:25から引き継いでいるようだ(アルトハウス)。「心の割礼」は人間が神に背をむける行為「頑な」の反対語であり(申命10:16)、神への真実と献身を意味していた(申命30:6)。パウロは「心の割礼」に「霊おける、霊をとおしての」という言葉を付加している。「肉における目に見える割礼」において「肉・サルクス」は「身体」のみならず「民族主義的宗教的な肉の働き・律法への誇り」も含まれる。「律法を頼みとし、神を誇り、律法を誇る」(17、23節)。この「肉における」は「文字てなく」(29節)の「文字」書かれた律法とも結びつき、律法に拘束された不自由な感じ。
 これに対して「霊における心の割礼」(29節)については、「心の」は「目に見える外見的な(アルトハウス、協会訳)」の対立語で、「ほんとうの割礼は肉における目に見るものではない」(28節後半)とあるように「目に見えない」を意味する (第二コリント4:18「目に見えるものは一時的であり、目に見えないものは永遠に続く」)。また「肉における割礼」はイスラエルの長い伝統のもとにある《過去からのもの》であり、かつ「律法の文字と割礼」(27節)と固定化され、その中ではこの割礼はイスラエルの「頑な」、さらに自己への誇りとも結びついた。これに対して「霊における(心の)割礼」は「文字てなく」すなわち「非律法的で自由な感じ」である。 「文字は人を殺し、霊は人を生かす」(第二コリ3:6)とあるように、人を生かすものである。「霊における」は明らかに「霊をとおして」で、「私たちの心に注がれている」という霊の現在の作用を意味する(ケーゼマン)。ソロモンの詩篇旧約聖書偽典)11:1以下には「私の心は割礼を受けた。いと高きお方が聖霊によって私に割礼を授けたからである」とある。パウロにおいてはこの「霊における心の割礼」は申命30:6にあるように「喜んで神に献身しようとする心の動きを創り出す」(アルトハウス)ものとなっている。この「霊」が神への服従、神との契約、絆への力として作用するからだ(8:4)。