建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、律法の業の無力  ロマ3:1~20

1997-4(1997/1/26)

律法の業の無力  ロマ3:1~20 

 「それではユダヤ人の卓越性は何か、割礼の有用性は何か。あらゆる点で多い。すなわちまず第一に、彼らに神の言葉が委託された。(彼らのうちの)ある人々が不真実となったとしたら、それは何に責任があるのか。それらの人々の不真実は神の真実を破棄させることになるのであろうか。決してそうではない。むしろ神が真実であることまたすべての人間が偽り者であることが証明されんことを。『あなたはあなたの言葉をもって義を所有し、人があなたと訴訟する時あなたが勝利する』(詩116:11)と書かれている。しかしながら私たちの不義が神の義を証明するとしたら、そのことを何と言おうか。怒りに定められる神は不義なのだろうか。これを私は人間的な仕方で語っているのだが。とんでもない。しかしもし神の真実が私の信頼できないことをとおしてあふれんばかりの栄光へと到達するとしたら、なぜ私がなおも罪人として審判を受けるのであろうか。人が中傷して私たちに言っているように、またある人々が私たちに問いかけているように、善を来たらせるために私たちは悪をなす、ということが妥当するのか。このような人々が審判にあうのは正しい判決である。
 ではどうゆう事情なのか。私たちは卓越しているのか。絶対にそうではない。私たちは先に告発した、ユダヤ人もギリシャ人も、すべての者が罪の力に支配されていると。それゆえこう書かれている、
 『義人は全くいない、一人もいない。見識のある者はいない、本気で神をたずね求める者はいない。すべての者が背反し、全体として役に立たない者となった。誠実に行動する者は全くいない、かつてただの一人もいない。
 彼らののどは開いた墓、その舌で彼らが偽りを言い、彼らの唇の下にはまむしの毒がある。彼らの口は呪いと辛辣さで満ちている。彼らの足は血を流すのに早い。彼らの道には荒廃と悲惨とがあり、また平和の道を彼らは知らない。神への畏れは彼らの眼前には全くない』。
 しかし私たちは知つている、律法が言つでいることは、律法の領域にある人々に言っている。それはすべての口が沈黙させられ、また全世界が神の前に罪責あるものとなるためであることを。それゆえ律法の業によっては、いかなる肉も神の前に義とされない。律法をとおしては罪の認識が起きるだけである」(ケーゼマン訳)。
 パウロは「ユダヤ人の卓越性、割礼の有益なること」を認めている。彼らに「神の言葉が託されたこと」を挙げている。しかしユダヤ人のもつ卓越性も、彼ら自身の「不真実」によって潰え去つた。「不真実・アピスティヤ」は神との契約への不真実、すなわち律法を破った彼らの行為を指している。それゆえ神への「不信仰」  とも訳せる。
 4節は詩51:4の70人訳からの引用。
 ポイントは9節以下のパウロによる「注解」 である。10-18節。
 9節の「私たち」はユダヤ人。「ユダヤ人には卓越性など全くない」というのが、パウロの結論である。命題的にパウロは述べる「ユダヤ人もギリシャ人もすべての者が罪の力に支配されている」と(10節)。この命題について彼は旧約聖書から根拠づけをする。しかしながら旧約聖書の文字どおりの引用ではなく、短縮や修正、付加がなされている。原始教会の「口伝」などをパウロは引き継いだのかもしれない、と注解者はいう。
 10~12「義人は全くいない、一人もいない。見識のある者はいない。本気で神をたずね求める者はいない。すべての者が背反し、全体として役に立たない者となった」の部分は、詩13:1~3、53:1~3をふまえたものだが、肝腎の「義人」という言葉はそこには出できていないので「義人」は付加である。「義人とはその意志が主の律法にある人である」(ルター「ロマ書講解」)。「義人は全くいない」はユダヤ人も異邦人も含めて全体として言ったもの。詩143:2「生ける者は一人もみ前に義とされない」。「見識ある・賢い者」は宗教的な意味で、賢い者、神を知る者。「賢い者、神をたずね求める者」は詩14:2=53:2にある。「すべての者が背反し」の部分は詩53:3。「誠実に行動する者・善を行なう者」は詩14:1、53:1にそのまま出ている。「役に立たない」はミルクが腐ることで(松木、注解)、詩14:1、53:1に「彼らは腐れはて」とあるのをうけたもの。
 13節の前段、中段は詩5:9から、下段は詩140:3からの引用。
 14節は詩10:7の修正、15-17節はイザヤ59:7、8からの引用。18節は詩36:1からの引用。「彼らの目の前には神への畏れがない」における「神への畏れ」は神への信仰を意味するが、反面で人間の文化、知識・哲学、道徳を評価することからは「神への畏れ」はでてこない。 バルトはこの箇所との関連で、歴史の本来の主題は人間が人間ならざるもの、すなわち自己の永遠の根源たる神との関係において問題化されていることを認識することだ、と注解している(「ロマ書」)。「神への畏れがない」というということは、人間存在の問題であるばかりではなく、「現代人の問題性」でもあろう。その帰結は現代人には「罪の意識が欠落している」ともいえよう(キルケゴール)。 「神を畏れることは知識の始めである」箴言1章。
 19節でパウロは「律法とユダヤ人」の関係について述べる。律法が言っている事柄は律法の領域にいる人々、ユダヤ人について妥当するのだと。したがってユダヤ人も律法に対する不真実(3:3)に対して弁解できない。「すべての口が沈黙させられる」は、異邦人が弁解の余地がない(1:20)ばかりでなく、ユダヤ人も、という意味である。ユダヤ人も人間自身の義やその優越性を主張できない、むしろ神の審判の正しさを認めて沈黙すべきだ、とパウロはいう。
 異邦人もユダヤ人も「全世界が神に対して罪責がある。なぜなら律法の業からはすべての肉は神の前で義とされない(義と宣告されない)からである」(19後半~20節)。ここは1~3章の結論的命題。「罪責がある・ヒュポディコス」は「罪を負うべき」「神の審判の前で罰を受けるべき状態」という意味で、ここだけに出てくる。異邦人は神の前に罪責がある。ユダヤ人も例外なく「集合体的な罪責がある」。
 20節の「律法の業」とはモーセの律法によって要求された戒めの実践の意味(ケーゼマン)。「すべての肉」とは人間存在のこと。3:9ですでに「ユダヤ人もギリシャ人もすべて罪のもとにある」、3:23にも「すべての人が罪を犯し、それで神の栄光を失っている」とある。
 「律法の業によってはすべての人間は(神に)義とされない」に関連して、詩143:2「生ける者はみ前に一人も義とされない」、3:28で「人間は律法の業なしに、信仰をとおして義とされる」。ガラ3:11「律法によっては、神のみ前に義とされる人は一人もいない」、ピリピ3:9「律法による自分の義でなはなく、むしろキリストを信じる信仰の義を私がうける」などがある。これらの箇所の「律法によって」はここの「律法の業によって」と同じ意味である。
 20節後半「律法をとおしては、罪の認識が起こるだけである」。パウロにとって律法が実際上神への真の服従とはならなかった。律法の実践をとおして一般に自分を誇るに至るからだ。「罪の認識」の「認識・エピグノーシス」は理論的なそれでなく体験による知識のことで、パウロがパリサイ人時代にした律法体験であろう。「罪・ハマルティアの本質」とはここでは、弱さや具体的な戒めへの違反のことではなく、神を無力なものとする積神のことである(ケーゼマン)。律法の機能は、人間に罪の認識を与えることにあるとの見解は、5:13「律法以前にも世には罪はあった。しかし罪はここにある律法なしには記帳されなかった」、7:7以下「律法をとおしてでなければ、私は罪を知らなかったであろう。…律法なしには、罪は死んでいた。私はかって律法なしに生きていた。しかし戒めが来た時、罪が生き返った」。
 「律法による罪の認知は二様に生じる。第一に省察的にである。7:7に『律法にむさぼるなと言われなければ、私はむさぼりを知らなかった』とあるとおりである 第二に、経験的にであり、律法によって同時に、行なう義務を引き受けたからである。それは律法はこのように罪の契機となり、悪へと傾く人間の意志が律法によって善へと強いられ、そのことによって、その意志はますます善に対して嫌気がさし腹立たしくなるからである。それは、聖書のいうとおり(創世記8:21)人は悪を愛するからである。しかし人は律法に強いられ心ならずも行動する時、やはり罪と悪とがいかに深く自分のうちに根をおろしているかに気づく」(ルター「ロマ書講解」)。