建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、神の義(1) ロマ3:21~22

1997-5(1997/2/2)

神の義(1)  ロマ3:21~22

 「しかし今や、律法なしに《神の義》が、律法と預言者たちをとおして証言されて、啓示されている。すなわち神の義はすべての信じる者のためのもの《イエス・キリストへの信仰をとおして》のものである」(ケーゼマン訳)。
 1:8~3:20までの大きな前半部分が終って、新しいテーマ、信仰義認のテーマが始まる。
 21節の「しかし今や」はここではきわめて強調されている。この「今」は終末論的な転回点を示す。26節によれば、この「今」は「現在の運命的な時・カイロス」である。神の救済史における決定的な転回の時、新しい時の開始、「キリストの時」という意味である。第一コリ15:20「キリストのよみがえり」の時、第二コリ6:2「見よ、今は恵みの時、救いの時である」。「キリストの支配が現に手もとに存在するということは、この《今》に究極性を与えているが、またいまだ存続するものをとおして信仰者を試練にもあわせる。パウロの終末論は歴史性と歴史とを止揚するものではなくて、神の行動にさからう世に対する神の救いの行動によって、これら二つを根拠づけている。(ケーゼマンの注解)。
 21節においてパウロは《どうして》「神の恵み、神の赦し」でなく「神の義」と述べているのか。これはなかなか難しいポイントである。旧約聖書を引き合いに出して「神の義」を「救いの行動」と定義し、その義を一面的に「愛」に算入してしまう、これが実はカトリックの解釈であったという。しかしこの解釈はパウロの立場への短絡である。
 パウロの見解によれば、あくまでも《法・義》という考え方に立って、審判者のみが、救いを設定することができるのであり、また恵みの力をもってご自分の被造物に対するご自分の「義しさ」(26節中段「「神が義となられる」)を貫徹なさる。神の義は神の恵み・救い・愛に解消されない。神の義と神の恵み(救い、愛)とは、相即し、互いに結合している。義から分離された神の愛は存在しないし、他方愛から分離される義も存在しないといえる。人間の義認はご自分の被造物に対する、《救いの力》としてご自分を啓示なさる《神の義しさ》の現実(神の義しさが現実となったもの)であるといえる。これが人間の義認の、根拠、力である。だから義認が個人に起こらないとしたら、義認の現実性は失われ、かつ義認も終末論的な出来事でなくなってしまう 神の義に関してこのようなポイントを明らかにしたのは 新約聖書学者ケーゼマンの業績である(論文では「パウロにおける神の義」)。
 したがって「神の義」が、《啓示された》・ファネルーン」(これは「啓示する・アポカルプトー」とは別の用語)は「現された、目に見えるようになる」(バルト、協会訳、松木訳)以上のことを意味する。この用語は「今や神の究極的な勝利を宣言している」からだ(ケーゼマン)。
 パウロは、この「神の義」が、二とおりの方法で「啓示された」という。「律法なしに・律法を別にして」と「律法と預言者たちをとおして証言されて」とである。神の救いは被造物全体にあてはまるものであるから、「業による義」として理解される「律法」(ユダヤ人に与えられる卓越性)を排除する。これが「律法なしに」である。他方、マルキオンやブルトマンとは違って、この義を旧約聖書、「救済史」との全体的な断絶としてはパウロは述べていない。その点が「律法と預言者を通して《証言された》」である。「律法と預言者たち」はいわば「旧約聖書全体」を意味する。その旧約聖書も、ユダヤ教の理解とは違って、あくまでも「救済史」 として把握される。             義の啓示は一貫して《公然たるものであり、法的な結びつき》によって示されている。22節には、この「神の義」が今や「信仰の義」として宣言されると述べている。
 ここの翻訳は少し難しい。原文「神の義はイエス・キリスト《の》信仰をとおしてのもの」の部分について、問題となるのは「イエス・キリストの信仰」(原文のまま)である(26節「イエスの信仰」、ガラ2:16、ピリピ3:9)。「の」を主格の所有格と解すると「キリストご自身の信仰」(ハウスライター)あるいは「イエスご自身に包含される信仰という誤解」(ケーゼマン)すなわち信仰は《キリストとの神秘的な交わり》から生じるという意味となる(ダイスマン、松木注解)。バルトはここを「イエス・キリストをとおして顕れた神の信実によって(すべての信仰者に与えられる)」と翻訳した。しかしながらこの「キリスト《の》」はあくまで目的の所有格「キリストへの信仰」 との訳が大多数である(協会訳、ミヘル、ケーゼマン訳)。                   「すなわち神の義はイエス・キリストへの信仰をとおしてのもの、すべての信仰者のためのもの」とケーゼマンは訳す。原文でもここは動詞がない。ミヘルの訳は動詞を補って「神の義はイエス・キリストへの信仰をとおして獲得され、また信じる者すべてに与えられる」。松木訳も同様。ケーゼマンは「パウロにとって(神の義が与えられるという)賜物をもって、賜物を与える贈与者、神は出現する」と注解して、義の啓示における神の行動を強調する。24、25節。
 「イエス・キリストへの信仰をとおして」についてもう少し考えたい。ミヘルは「キリストへの信仰」の眼目は「信仰告白の行為」であるという。そうだとすると、神の義の啓示という神の側の行動とそれに応答する人間の側の信仰告白という行動という二つのものの連関が出てくる。しかしそうなのだろうか。
 神の義の啓示は神の義という賜物の贈与の「行為」を意味する。この義の賜物はキリストの十字架における「救い・Erioesung」の出来事(24節)。それゆえ「イエス・キリストへの信仰」は「キリスト・イエスにおける救い・贖い」(24節)を信じること、より具体的にはイエスの十字架、すなわち神がキリストをこの方の血による贖罪としてお立てになったことを《信仰をとおして把握すべきもの》(25節)とみる。これが22節における「キリストへの信仰」である。したがって「キリストへの信仰」はキリストの贖罪(24節)、キリストの歴史的な十字架の死を救い(24節)とみる信仰である。
 キリストへの信仰が存在しないところでは、キリストの贖罪も、キリストの救いも存在しない。それゆえ神の義の贈与も存在しえない。ただユダヤ教当局とピラトによるイエスの処刑死が見えるだけである。キリストへの信仰がどこか別のところで成立していて、その信仰に対して、神の義が賜物としてプレゼントされる、ミヘルの見解はこういう感じがあるのだが、おそらくこういうことではないであろう。
 神の義がキリストへの信仰をとおしてのもの(22節)とは、キリストへの信仰を成立させるものは何かというテーマと関連する。キリストへの信仰が無ければ、神の義が賜物であることも、神の義自体も理解できない。視点をかえれば、瀆神者として処刑死されたイエスの義の確認・確立であるところのイエスの復活も「神の義の啓示」といえる。復活の顕現は弟子たちにキリストへの信仰を実現させた出来事であった。ヨハネ20:28「ああ主よ、わが神よ」。神の義の啓示が無ければキリストへの信仰も成立しない。パウロがここで義の啓示としてイメージしているのは、明らかにキリストの復活ではなくて、むしろ「キリストの十字架」のほうである(25節「その血による贖罪」)。福音書はキリストの十字架のもとで、異邦人の百卒長においてキリストへの信仰が成立した、と述べている、マルコ15:39。その意味で、キリストへの信仰、キリスト信仰を成立させたものは実は神の義の啓示、すなわちキリストの十字架であり、復活である。
 神の義の賜物とはこのキリスト信仰の成立をも含んでいた。神の義の啓示によって、このキリストへの信仰も成立したといえる。神の行動と人間の応答という「二つのもの」はいわば成立しないで、神の義の啓示とキリストへの信仰はいわば「一つのもの」といえる関係にある だから、神の義の啓示はあくまで「キリストへの信仰をとおしてのもの」である。今やこの義の賜物は、これを信じるすべての人に与えられる。キリストへの信仰は、この神の義を「神の審判としてではなく」(ルター)神の賜物として認識させるからである。