建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、神の義(2) ローマ3:23~25

1997-6(1997/2/9)

神の義(2) ローマ3:23~25

 「そこにはいかなる相違もない。すべての者が罪を犯して、《神の栄光を失つている》からである。かくて彼らは《贈り物として》、《神の恵みによって》《キリスト・イエスにおける救い》をとおして義と認められる。このお方を神は《贖罪》として公然とお立てになった。そしてこのお方の血による贖罪は信仰をとおして把握される」ケーゼマン訳
 23節の「相違」とは、異邦人とユダヤ人との相違、律法なしに罪を犯した人間と律法のもとで罪を犯した人間(2:12)などの相違である。そういった相違が「ここでは」全く存在しないという。というのは異邦人もユダヤ人も「《すべての人》が罪を犯して、神の栄光を失っている」からだと(23節)。
 ここの「神の栄光」は人間のよき思いとか、神のもとでの栄誉ではなく、むしろ黙示文学的な考えによる、義人が待望している「天的な光の栄光」、アダムの堕落以来失われた人間の「神の似像」のこと。外典のソロモンの知恵2:23「神は人間を不滅な者として創造し、ご自分の本性の似像として造られた」によれば、この神の似像は人間の不朽性であるという。第二コリ5:17「誰でもキリストにあるならば、新しい被造物である」とあるように、人間の義認には、失われた神の栄光、神の似像の回復、この新しい創造が含まれている。すなわち信仰者はキリストの支配にあずかることによって「失われた神の似像性を取り戻す」というテーマがここで暗示されている。神の似像とは、人間の所有する何か・実態(理性とか良心とか)ではなく、むしろ、創造者に対する被造物としての関わりのことである。
 24節後半から25節まではパウロが受けた《伝承》の引用的文章と解釈されている。24節後半「彼らは、《贈り物として》神の恵みにより、キリスト・イエスにおける《救い》をとおして《義と認められる》」。
 「ただで・価なしに」は、「贈り物として」「値なくして受け取るものとして」。むろんここでパウロは「律法の業」による義認という考えを否定している(3:19)。
 「救い・あがない・アルトローシス」は元来「隷属状態からの釈放」の意味。そこから奴隷の身分や罪の支配のもとにある人間たちをその支配から解放すること、救うこと、罪からの解放、「贖罪・救い」の意味。第一コリ1:30「キリストは神に立てられ、私たちの知恵、義、聖、贖い(バウアーの辞典では「贖い主」)となられた」、コロ1:14「私たちは御子によって贖い(救い)、罪の赦しを得ている」、エペソ1:7「キリストの血をとおしての救い」とあるように、礼典的なニュアンスをもつ。しかしここでのアポストローシス・救いは「具体的な救いの行為」すなわち《ただ一度限りのキリストの死》を指している。これはエペソ1:7での、救い・贖いは「キリストの血をとおしての救い」すなわちキリストの死との関連が明らかである。            
 「神の恵みをとおして」はここでは神の力。すなわち先の「贈り物として」と同様「律法の業による義」に《よらないで》の意味を含む。主語は明示されていないが「義と認められる」は神的受け身形であり、この義認が神の行動であることを示している。
 25節「このお方を神は公然とお立てになった。この贖罪(ヒラステーリオン)はこのお方の血において信仰をとおして把握される」。ここは翻訳が難しい。
 「贖罪・ヒラステーリオン」は、契約の箱の上にある黄金の板で、大贖罪日(ユダヤ暦による大晦日)に大祭司が行った贈罪の儀式において、動物犠牲の血を注そいだ契約の箱のふたの部分で「贖罪所」と訳される(出エジ25:17~21、レビ16:14~15など)。贖罪所は、この儀式において神が臨在する場所であった。この贖罪所において「流された血」、あるいはこの贖罪の儀式自体が罪を贖う力があるという考えは前提とされていた。ユダヤキリスト者の伝統においては、ヘブル9:5にこの用語が出てきている。
 この用語・ヒラステーリオンをミヘル、協会訳、松木訳は「贖いの供え物」、ドット、シュラッターは「罪の赦しの手段」、アルトハウスは「贖いの手段」と翻訳した。ケーゼマン訳は「贖い・贖罪」。
 マルコ10:45の「人の子がきたは、多くの人のための贖い(ルトロン)となるためである」。この「贖い」は「身の代金」という考えを述べたものと解釈された。かつて、教会史においては、イエスの死の意味について、次のような見解があった。(1)サタンに対する身の代金としてのキリストの死。キリストはその血によって私たちをサタンの力から贖ったという見解(アウグスティヌスなど)。(2)イエスの死は人間の罪のための償いとして神にささげられた唯一、最高の功績であるとの充足説(アンセルム、11世紀)。(3)キリストは人類の罪を彼自身の罪として引き受け、受けるべき刑罰として私たちのために苦しむという刑罰受苦説(ルター)。これらの見解はいずれもずれがある。
 25節において「キリストを贖いとして公然と《お立てになった》」のは神ご自身である。それは決してユダヤ教の贖いの儀式の執行という意味ではない。ユダヤ教の枠内では「贖罪は律法の義の回復」を実現する。贖罪の儀式をとおして再び律法の義が回復されたのだ。これに対して、ここでの「キリストの血による贖い」は、決して「律法の義の回復を実現するもの」ではなかった。「贖い」についてパウロは、第一コリ15:3で伝承を引用して「キリストが私たちの罪のために死んだ」といっている。原始教会はこの「罪の赦し・アポルトローシス」を有効なものとして取り入れた。モルトマンによれば「罪の赦し・贖罪という考えが受け入れられた理由はこうであった(1)義ならざる人間が自らは律法の義を自分ではつくり出すことができないで、他方自らの罪過を引き受けることも、それからの解放もできない。(2)神は人間に対する愛のゆえに、キリストを立てて無力な人間の代理として、人間の立場に立たれ、人間のほうはキリストとの交わりをとおして神の前に立つことができる。(3)このキリストの死、その血による贖いは神ご自身が無力な人間への恵みのための行為であったこと。
 この贖いを信仰者は、イエスの死の時点においては把握できず、イエスの復活という時点ではじめて認識するようになった。
 25節では「信仰をとおして」の句がどの句にかかるか、読み方が難しい。「信仰をとおして」は、パウロが受けた伝承にパウロが付加した句と解釈されて、原文にない語を補って、協会訳、松木訳は「信仰をもって《受くべき》」と訳す。「贖いの供え物」を「信仰もって受くべき」とみる。アルトハウスの訳は「この贖いの手段は信仰をとおして作用する」。ケーゼマンは「神がキリストを贖罪としてお立てになった」をうけて「彼の血による贖罪は信仰をとおして《把握される》」と訳す。この翻訳は、イエスの十字架につまづき絶望した弟子たちが、イエスの復活に出会い、復活の光をとおして、あのかたの十字架の死は何であった、何のためであったかという検討のなかで示された神の啓示であったことを正確にとらえたもの、十字架と復活との関連をきちんとふまえたものといえる。その啓示のもっとも古い内容が、私たちの罪のためのキリストの死であり(第一コリ15:3)、キリストの血による贖い(ここ)である。ケーゼマンの「信仰をとおして把握される」との訳は、この贖いの出来事が「信仰をとおして把握される」べき内容であることを強調している。この贖いの出来事が誰にでもどこにおいても認識される「事実」であったとしら、それは決してつまづき、逆説とはならず(へブル11:1)歴史学において実証されうる「事実」となってしまう。すなわち信仰的に把握すべき事柄ではなくなる。キリストの十字架の死において罪人の罪の赦しは実現した。しかしながらこの罪の赦しの出来事は、イエスの十字架の時点では認識されえなかった。弟子たちにとって十字架は「救い」ではなくて、むしろつまづきであった。したがって、この十字架における「キリストの血による贖罪」を誰にでもどこでも認識可能な「歴史的事実」とみる見解は(保守派)誤りである。むしろこのキリストの贖罪は、私たちの「信仰告白の内容」というべきである。「目に見えるものは望みではない」(ロマ5章)のと同様、目に見える救いは信仰の対象ではない、したがって救いではない。キリストによる罪の赦しは、神が「このお方をお立てになった」神の行為、すなわち啓示である。このことをパウロは「信仰をとおして把握される」と表現したのだ。他面で「信仰をとおして把握される」は、「律法の業による義」に対する決定的な否定である。
 カール・バルトはこの「信仰」をむしろ神の「信実」ととる。「神はその信実をキリストの血に示して、彼を贖宥(贖罪)の上蓋と定めたもうた」。この訳は可能であるが、少し読みすぎの感がある。 「キリストの血」はむろん十字架を暗示するが、ヒラステーリオン贖罪所で「流された血」と関連させて、バルトはこう講解する、
 「贖罪(贖宥)の場所で贖罪・贖宥が行なわれる時には、必ず血をふりかけなければならない。イエスにおける贖罪も『神がその信実をイエスの血に示したもうことによって』はじめて行なわれる。…イエスはご自身の血によってご自身が神の信実を人類に告げる最初のまた最後の言葉であること、われわれが救われるという不可能な可能性の開示者たることを実証したもう」