建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、神の義(3) 神の義の証明 ロマ3:25~27

1997-7(1997/2/16)

神の義(3) 神の義の証明 ロマ3:25~27

 「これは神の義の証明のために起きたことであった。
 神の忍耐によって従来なされた罪過は見過ごされていた。(それは)現在の運命的な時に神の義を証明するためであった。そうして(その結果)神が義となられ、またイエスを信じる者たちを神が義とされるのである。
 ではどこに誇る可能性があるのか。その可能性は全く残されていない。どのような法をとおしてか。業の法か。否、むしろ信仰の法をとおしてである」(ケーゼマン訳)。
 25節の、神がキリストをその血による贖罪としてお立てになった、を受けて、後段には「神の義の証明のために起きたことであった」とある。ここまでがパウロが受けた伝承である。26節はそれに対するパウロの注解である。
 26節の「神の《忍耐》・アノケー」という用語は、出エジ34・6「主、主、憐れみあり、恵みあり、《怒ること遅く》」などに由来する。すでに2:4に「神の慈愛と忍耐(アノケー)と寛容(マクロテュミア)」について言及されている。当時のユダヤ教の文献クムラン教団の文書にはこうある、
 「たとい肉の罪につまづいても、私の義認は永遠に神の義のもとに立つ。神は憐れみをとおして私に近づきたもう。また彼の恵みをとおして私の義認は到来する。彼の真実の義をもって彼は私の罪すべてを贖い、彼の義をとおして彼は人間のすべての汚れと人の子らの罪からをきよめられる」(宗規要覧 九)。偽典第四エズラ8章31以下「私たちと父祖たちの死の業に生きていた。しかしあなたは、私たちが罪人であらばこそ、憐れみ深いお方と呼ばれるでしょう。私たちが業の義をもっていないからこそ、あなたが私たちに恵みを与えようと欲つする時、あなたは恵み深いお方と呼ばれるでしょう。…あなたが善き業の全くの貯えなき者たちを憐れまれることをとおして、あなたの義と善が啓示されるからです」。
 パウロはこのよつなユダヤ教の伝承に解釈を加えていく。「神の義」についてここで述べられているが、ここで眼目となるのは「配分的正義」(アリストテレス)ではなく、むしろ赦し「従来なされた罪過を見過ごす」を与える「神の忍耐」である。「見過ごすこと・パレシス」は「罪などを罰さないままでおく」の意味で、間接的には罪の赦し、新約聖書ではここのみ。過去の歴史におけるユダヤ人の罪「従来なされた罪過」が問題とされているが、強調されているのは、その罪の歴史が《イエスの死をもってなしとげられた新しい世への転回》「現在の運命的な時点」をもって克服されている点である。もし「契約」という表現を用いるならば、神と特定の民イスラエルとの「契約」が「新しい形で回復」される。それをパウロは「神の義の証明」として示した。
 「現在の運命的な時・カイロス」は21節の「今や」と同様、地上的な世ではなく、終末論的に新しい世の到来の意味。「カイロス・時・時点」は神がこの世の時の流れ、歴史に介入にしてきて新しい出来事、ここではキリストの死という出来事を起こされる「特別の時」の意味。
 現在の新しい世の勃発において示されるのは、ここでも「神の義」であって決して神の愛、神の恵みではない点は注意を要する(26節)。そういってよければ「神の義と愛の出会うところの義」(賛美歌262)である。
 26節の後半「その結果、神が義となられ、またイエスを信じる者たちを神は義とされる」。ここの「神が義となられる」と「神がイエスを信じる者たちを義とされる」とは堅く結びついているが、この両者の関連について、ルターの「ロマ書注解」はこう述べている「神は、われわれがかって犯した罪を赦すことによって、すべてを義としたもう方としてご自身を顕示したもう。こうして罪の赦しは神を義しくあり、義とする力として確証する」と。
 しかし、ポイントはあくまでも契約の更新やこれまでの罪の赦しではなくて、後半《神がイエスを信じる者たちに義を注がれること》にある(ケーゼマンの注解)。ここに至ってかの「現在の運命的な時点」の意味がより明らかになる。新しい世への転回は、神の義が古い契約の民ユダヤ人を包み超えて、十字架につけられたイエスを信じる者たち全体に与えられることとなった、ことを意味する(ケーゼマンの注解)。神のこの義のふり注ぎ、これがここでのテーマ「神の義の証明」である。
 パウロの言葉「神の義の証明」についてのルターの解釈では、人々の罪に対する《神の赦し》に強調点があり、他方ケーゼマンの解釈では、義ならざる人間に対する《神の義のふり注ぎ》にポイントが置かれている。どちらかといえば、「神が義となられ」イエスを信じる者を「義とされる」と義について二度言及しているので、ケーゼマンの解釈のほうがよい。                 27節から新しいポイントに入る。「では誇る可能性はどこにあるのか。その可能性は残されていない。どのような法をとおしてか。業の法のようなものをとおしてか。否、むしろ信仰の法をとおしてである」。
 「誇る可能性」というのは、ユダヤ人に対するもので、ユダヤ人が「神を誇り」(2:17)「律法を誇る」(2:28)、要するに「肉による誇り」(第二コリ11:18、ガラ6:13)、「人間を誇る」(第一コリ3:21)「自らを誇る」(エレミヤ48:42)という意味である。パウロにとってこの「誇り」という言葉は、その人間のありようを示す重要語。パウロの語り口は「論争的」であって、「自己を誇る可能性」が全く断たれているという。「自己を誇る」と対照をなるのが「信仰」である。信仰はもはや自分から、自分のために生きることではないからだ。イエスの死をとおして勃発した新しい世においては、人間の「自己救済」の終りをも意味する。律法は、事実上自分自身への配慮、自己信頼、自分で自分を確保するために動くことに陥いらせる。律法が自己を誇る作用をする限りでは、律法は、不信仰の世界のしるしである。
 ここでは本来「律法」を意味する「ノモス」が「法、規則、秩序、規範」という意味でもちいられている。「業のノモス」はむろん「業の律法」とも訳せるが、これは明らかに「業の法」と訳すべきだ。信仰は、トーラー(律法)の働きを終らせるのだが、それは、信仰者の判断によってではなく、むしろ信仰に立ち信仰においてあらわれる新しい秩序のゆえに「自分の弱さを誇る」(第二コリ11章)などトーラーの働き(自己を誇らせる)を終らせる。それゆえ本来対立的な「ノモス・律法」と「信仰」とが逆説的に結合して「信仰のノモス・法」という表現をパウロは用いる。
 ルターは「講解」においてアウグスティヌスの「霊と文字」から引用して述べる、「『行為の律法は言う、私が命じるところをなせ、と。しかし信仰の法は言う、あなたの命じたもうものを与えたまえ』と。このために律法の民は律法に対し、また律法において語りたもう神に答えて言う、私はあなたが命じたもうたことをなし、あなたが禁じられたとうりにしたと。しかし信仰の民は言う、私はなしえない。私はなさなかった。しかしあなたが命じたもうものを与え給え。私はそれをなさなかった。しかしそうしようと切望している。また私にはできないから、なしうるように、あなたに懇願し訴える、と。こうして前者は高慢になりほら吹きになるが、後者は謙虚になり、自己を卑しめるに至る。こうして双方の違いは、前者は私はなしたと言い、後者は私はなしうるように祈願すると言うところにある。前者はあなたの欲するものを命ぜよ、私はそれをなそう、と言い、後者は言う、あなたが命じたもうものを与えて私をしてなさしめたまえと」。
 ルターは「信仰の法」を的確に表現している。