建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、信仰義認  ロマ3:28~31

1997-8(1997/2/23)

信仰義認  ロマ3:28~31

 「私たちは判断する、人間は律法の業なしに、信仰をとおしてのみ義とされるからである。それとも神はユダヤ人だけのものか。否、異邦人のものでもあるのではないか。確かに、異邦人のものでもある。割礼の者たちを信仰に基づいて、また無割礼の者たちを信仰をとおして義と認めたもう神は、ただひとりでありたもう。では私たちは信仰のゆえに、律法を廃棄するのであろうか。とんでもない。むしろ律法を立てるのである」。
 28節の「人間」はもはや、ユダヤ人と異邦人との区別がとり払われた、人間一般の意味。「律法の業なしに」は、20節の「律法の業からは、いかなる人間(肉)も神の前に義とされない」を受けての、言い換えである。「律法の業との対立をもって、そのような業によって企てる、敬虔な人間の自已を誇ることとの対立が明らかになればなるほど、義認を与える信仰は疑いなきものとなる」(ケーゼマン)。すべての人間が罪責があるという前提から(19節)信仰は生い立つものであり、また信仰は、救いを立てられ、たえず敬虔でない者たちを義と認められるお方への帰依である。律法は敬虔でない者たちには妥当しない。律法は実際神のみが救いに至らせるとの現実を前提にしていないし、パウロにとって律法の業は律法への違反を強めた無神性であり、それゆえ信仰とは一つものとはなれない。
 「信仰をとおしてのみ」は先の25節における「彼・キリストの血による贈罪」すなわち《キリストの死をとおしてのみ》の言い換えである。かつ「信仰をとおしてのみ」は27節における「ユダヤ人の誇り」であるところの《律法の業》を徹底的に無に帰するもので、この28節では「律法の業なしに」によって、強化・徹底化されている。
 「信仰をとおしてのみ」 をカトリックは、「愛によって形成される信仰」と解釈して、信仰者の義と恵みの増加のためには、神と信者と共働する「業」が求められるとする。言い換えるとパウロがここで述べている「律法の業なしに」をカトリックはかってに取り除き、パウロの基本線から脱線していく(松木、注解)。27節以下では、パウロは信仰の本質の視点からみた、「律法の終り」を告げているのである。
 29節以下。パウロにとって、救済史はユダヤ人とだけ結びつくのではない。「神はユダヤ人だけのものか。否、異邦人のものでもあるのではないか。確かに異邦人のものでもある」(29節)。義認としての救いをパウロは、創造者の真実と結合させている。したがって、創造者なる神はもはや「イスラエルユダヤ人だけの神ではない」。パウロは、ソラ・クラテヤ(SORA GRATIA 恵みのみ)をソルス・デウス(唯一の神、30節「神はただひとりである」)に、すなわち創造者の全能と自由に根拠づける、したがって「恵みのみ」をシナイ契約に限定することは、ゆるされない。唯一の神を信じる信仰告白は、救いを敬虔なる者たちの特権とみなす律法理解を打ちこわす。創造者、審判者として神は異邦人の神でもあり、それゆえ無神なる者の救いでありたもう。他方では、神はユダヤ人の神であることをおやめにならない(9章以下)。
 30節「割礼の者を信仰に基づいて、また無割礼の者を信仰をとおして義と認められる神」において、「信仰に《基づいて・(信仰)から》」は「エク・from」、「信仰を《とおして》」は「デイア・through」、違いはほとんどない。信仰は神の独一的活動を唯一の根拠としている。それゆえもはや律法の業を依り頼むことができない。ここでも割礼の者と無割礼の者、ユダヤ人と異邦人との違いは克服されている。克服されるのみではない。彼らは今や唯一の神への信仰へと招かれている。この神が人間を義と認められる方法もただ一つであり、それは「信仰をとおして」という方法、「律法の業なしに」という方法である。
 むろんユダヤ人でありながらキリスト者になった人々、異邦人でありながらキリスト者、が存在する。ユダヤキリスト者イスラエルの歴史をこえて、キリストの中にその根源を新たにとらえねばならない。キリストはユダヤキリスト者にとっても、ダビデ家出身のメシアである「キリストは肉に従えばダビデの子孫から生まれ」1:3)。異邦人キリスト者については、救済史は明らかに自分たちの歴史との内在的な連続性をもっていないので、彼らは自国の歴史と聖書にしるされた救済史との二重の歴史をもつことになる。彼らに向って、自分たちでは開けられない、救済史へのドアを開けるのは、信仰である。そしてユダヤキリスト者も、異邦人キリスト者も、一つの救済史・キリスト再臨の待望へと組み入れられたのである。
 31節「では私たちは律法を廃棄するのだろうか。とんでもない。むしろ律法を立てるのである」。ここは「律法」そして「律法を廃棄する、立てる」の意味が難しい。
 ここで「律法・ノモス」は、倫理的な真理を表現したもの、ではないし、新約聖書の意味での律法の総体でも、福音をとおしての超越したもの、でも、神の秩序や法の秩序でもない。むしろ先の21節にあるように、律法は信仰義認の証人であり、旧約聖書においては《神の意志》である。「神の義は、律法と預言者たちをとおして証言されて」21節においては、神の義は人間を義と認めようとされる神の意志・御心をも示している。
 「律法を立てる、確立する」は「効力あるものとする、妥当性を与える」の意味。10:3では「ユダヤ人は《自分の義を立てよう》と努めた」など。
 パウロはここで律法のもつ審判の機能について語っているのではない。また律法の現在的な妥当性を批判しているのでもない。律法を《弁証法的に弁護している》のではない。
 律法との対立においてのみ、信仰の行為は可能となるから。むしろ《律法が実践の原理であることをやめる》場合にはじめて、旧約聖書のいう《神の意志》は明らかとなる。
 神の意志は、信仰義認と矛盾するのではなく、むしろこの信仰義認の中へと人々を招き入れるのである。信仰義認は「恵みのみ ソラ・グラティア」の世界であり、この恵みの領域へと、神は導き入れられるのだ。
 旧約聖書はその気で読めば、ユダヤ人に決して限定されないところの、神の御心の啓示がしるされている。アブラハム(4章で大きく取り上げられている)はユダヤ人の祖先というよりも「諸国民の父」として諸国民への神の祝福の源であった。イスラエルの救済史においても、異邦人への神の救いの御心が絶えず射程に入れられていた点を、パウロは9章以下で展開している。