建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、信仰義認 アブラハム1 ロマ4:1~8

1997-9(1997/3/2)

アブラハム1  ロマ4:1~8 

 「さて、肉による私たちの組先、アブラハムが見出したものについて、私たちは何というべきだろうか。アブラハムが業に基づいて義と認められたのあれば、彼は誇る権利を持つていよう。しかしそれは神の前ではあてはまらない。聖書は何と言っているか。『アブラハムは神を信じた。そしてそのことが彼には義とみなされた』(創世記15:6)とあるからだ。業を実践する者にとって報酬は恵みという仕方ではなく、むしろ(支払う側の)義務としてその者に支払われる。しかしこれに対して、業を実践することなく、無神の者(敬虔でない者)たちを義と認められるお方を信じる者にとっては、彼の信仰が義認とみなされる。かくしてダビデは神が業なくして義に帰属させたもうた人々を、幸いなるかな、と讚めたたえた。『幸いなるかなその不法を救され、その罪をおおわれた者たち。幸いなるかな、王がその罪を决して負わさない人』(詩32:1以下)」ケーゼマン訳。
 1節以下でパウロは「信仰による義」というテーマ(3:28)を旧約聖書をとおして論証しようとしている。まずアブラハムの場合にはどうなっていたか。
 「肉による私たちの祖先」とは、3:27、4:2における「ユダヤ人の誇り」と関連してユダヤ人が「民族の父」としてアブラハムを誇ること。ヘレニズムのユダヤ教においては族長たちは完璧な義人、信仰の模範とみなされていた。それでパウロアブラハムを取り上げたのであろう。これに対して、パウロアブラハムを《肉によらない》「信仰の人」の例として引き合いに出す。信仰に立つ者は、異邦人でも「アブラハムの子孫である」(ガラ3:29)という。

 2節の「業に基づいて義と認められる」は、3:30「無割礼の者を信仰に基づいて義とされる」と対句となしているが、「業による義」は信仰の対立語「誇り」と結びつくことができると、パウロは言う。アブラハムの場合「しかしそれは神の前では妥当しない」と主張する。
 パウロが引用した創世記15:6は、本来、いまだ実子のいないアブラハムが「あなたの子孫はあのように(夜空の星のように)なるでしょう」との神の将来的な約束(15:5)を必ず実現されるもの、すなわち真実なものとして受け入れた「神は《それを》アブラハムにとって義と認められた」(「彼の行為」をとはしるされていない)という意味である。彼の信仰は何か未来的なものであった(フォン・ラート)。
 次の4:9において、パウロはこう翻訳した「アブラハムにとってその信仰が義とみなされた」。ガラ3:6参照。
 しかし後のユダヤ教の解釈では、アブラハムの信仰は、成果からみて《報酬に値する行為》と解釈された。「アブラハムは試練をとおして信仰を証し、それが彼の義と見なされた」(外典、第一マカベア2:52)。彼の信仰は、信頼と服従として《戒めを守る》ことと理解され、それは《一つの業となった》のだ。このような《信仰と業との結合の仕方》すなわち「アブラハムにおいては、信仰が彼の業と共に働き《その業によって信仰が全うされた》」(ヤコブ2:22、23)という理解は、パウロの信仰理解とまっこうから対立する。
 パウロにおいては「信仰は救いの使信を受け入れること、真実なものとみなすことをその本質としている。信仰は徳目でも、宗教的行為でも、体験でもなく、むしろ《聞くことからの信仰》である」(ケーゼマンの注解、ロマ10:9、17参照)。信仰が《聞くことから》ということは、「見ること」とは対立するる。信仰は「見えないものを確証すること」だから(へブル11:1)。
 救いの条件にとって、信仰は義認に先行する人間の実践としてではなく、むしろ御言葉を受け入れること、またそれを確かなものとすることとしてのものである。ロマ10:9。
 他方、信仰の出現は、ガラ3:25などでは、ユダヤ教の「トーラーからの離脱」として語られている。言い換えると、信仰は人間の行為ではなく、むしろ一つの服従であり、決して個人的な態度でなく、むしろこの世に到来する力であり、神的出来事の現実、主体を超えたものである。信仰はただひとりという形で成立するものではなく、教会共同体の形で成立する。信仰を芽生えさせ活性化させる霊の働きはこの共同体に臨むからだ。
 ここではパウロは、信仰の本質を「無神の者(敬虔でな者)を義と認められるお方を信じる」と表現するこで、もっとも深く信仰を規定している。
 福音によれば、業の実践と信仰とは相互に排除しあう。他方、ユダヤ教も異邦人の考えにおいては、人間の実践なしには決して「敬虔」も真の神認識も存在しない。アブラハムは人間的な実践をしなかったのであるから、彼はもはや宗教的な人格の傑物の実例ではなく(イギリスのドットなどの解釈)、むしろ当時の周囲の世界の尺度では、宗教をもたない、敬虔でない者であった。創世記15:6は「信仰の本質を《非実践的なもの》」として語っている(ガラ3:1以下、6)。したがって信仰にとって問題なのは、敬虔でない者を義とするお方である。
 パウロにとって、信仰は決して信心深いこと(人間の宗教心のようなものは、人間が生まれながら持っている能力である)と同一視できない。パウロにとって信心深さと道徳とは、不敬虔の衣装でありえる。パウロにとって信仰は人間的な能力ではないのだ。
 パウロが信仰を規定するには、神がどのようなお方であるかを言わなければならない。彼は義認論において神がどのような方かを語った。それが、神は無からの創造をされるということである(4:17)。信仰はこの無からの創造の神についての使信にしかりを言うことでありそれがアブラハムの信仰であったとされ(4:17)、それゆえ、この神が絶えずしかも敬虔でない者を義とされる(これも「無からの創造」である)ことへの信仰を告白すること、これが信仰である。眼目は神の創造であり、人間は自らが神の恵みの中で新たに創造されるのを、敬虔でない者に義が創造されるのを体験する。そのような人間は神のもとでいかなる誇りも持たない人間である。
 さて、パウロは詩32:1以下をも引用してそこに独自の解釈をしている。
 8節「幸いなるかな、その咎を赦されその罪をおおわれた者たち。幸いなるかな、主が断じてその人に罪を負わせない人」=詩32:1、2。「幸いなるかな」は福音書にある至福賛ではなく、ここではむしろ「救い」を意味している。そして前の6節がこの引用に対する、パウロの解釈を述べている。「罪を負わせない」はパウロが展開してきた表現「義とみなす」という意味で、内容的には罪の赦しを言っている。ここでは赦しは罪人にのみ与えられるのであるから、パウロは引用を独自にこう解釈する「神は、業を根拠にしてではなく、むしろ敬虔でない者に救いを創造したもう」と。この引用では罪の赦しに関する用語が集中して出てきているが、「咎を赦され」「罪をおおわれる」「罪を負わせられない」。いずれも罪の赦しは「救い」を意味している。この引用では「罪」は複数形となっているが、パウロはこれに対して罪をしばしば単数形で表現する。           続