建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、信仰義認 アブラハム2 ロマ4:9~17

1997-10(1997/3/9)

アブラハム2 ロマ4:9~17 

 「さて、この幸いなるかなの讃美は、割礼の者を指しているのか、それとも無割礼の者をか。というのは『アブラハムには、その信仰が義とみなされた』と私たちは引用したからだ。どの状態で彼はそうみなされたのか。割礼の状態でか、それとも彼が無割礼の状態にあった時か。
 割礼の時ではなく、むしろ彼が無割礼の時にである。かえって無割礼における信仰の義認の押印として、アブラハムは『割礼のしるし』を受けたのだ。かくして彼は無割礼の信仰者すべての父となった。それは彼らに義が帰属するようにするためであった。同時に彼は割礼の者の父にもなった。すなわち割礼の者に属す人々ばかりでなく、私たちの父アブラハムの、無割礼において(確証した)信仰の足跡をたどる人々にとっても父となったのである。
 アブラハムがこの世の相続人になるとの、アブラハムや彼の子孫への約束は、律法によってではなく、むしろ信仰の義によったからだ。すなわち律法の点で敬虔な者(直訳では「律法の人々」アルトハウス訳)が相続人になるのであれば、信仰は無意味となり、約束も無になるであろう。律法は怒りを引き起こすからだ。律法が存在しないならば、違反も存在しない。それゆえこの約束が、律法に基づく人々ばかりでなく、アブラハムの信仰に基づく人々にとってもすべての子孫にとって妥当するのは、信仰に基づいて、それゆえ、恵みによってである。彼こそ私たちすべての者の父である。『私はあなたを多くの民の父に定めた』(創世記17:4)としるされているように」。
 創世記の記事を見ると、アブラハムの信仰義認は15:6、それに対して彼の割礼の記事は17:9~14に初めて出てくる。それによれば、割礼は信仰義認のほぼ29年後に起きたことになる。しかしながらユダヤ教の解釈では、割礼は義認の前提となっていたようだ。だからこそ、パウロは、10節の問い「アブラハムが義とみなされたのは、割礼の状態でか、それとも無割礼の状態でか」を発したのだ。そしてパウロは、アブラハムが義とみなされたのは「割礼の時ではなく、むしろ無割礼の時であった」と言い切る、10節後半。また11節においてパウロは、信仰義認と割礼との関連を「無割礼の状態での信仰義認の押印として、割礼のしるしを受けた」と述べる。この箇所が述べている点は明らかである。「割礼は義認のために受けるのではなく、むしろすでになされた義認のしるしとして受けるからである。…割礼は、人々が信仰をもっており義とされていることを証明するのである」(ルターの「ロマ書講義」)。
 12節の「私たちの父アブラハムの、無割礼の時の(に証明した)信仰の足跡をたどる人」はあきらかに「異邦人キリスト者」をさしている。異邦人キリスト者を「アブラハムの信仰の足跡をたどる人」とパウロは表現したのだが、ここは美しい。キルケゴールの「畏れとおののき」、それを読んだ現代の私たちも「これ」に属すと感じる。このポイントはさらに17節以下で展開される。現代のキリスト者にとって旧約聖書の登場人物の中でもっとも、教えられ、支えとなってくれる人物は誰であろうか。無教会の人々は預言者エレミヤなどを強調する。詩篇を別にすれば、やはり、アブラハムとヨブであろう。
 パウロ論議は、《キリスト者の》信仰義認にとって、割礼が不可欠かどうかの問題としてパウロが激しい闘いをしていた背景を考慮しなければならない。先に言及したエルサレム教会の主の兄弟ヤコブは、律法にも忠実なユダヤキリスト者の派閥を形成して各地の教会にもその息のかかった人々を派遣した。
 かくてアンテオケ教会を訪れたヤコブ派に属す人はこう主張した「あはたがた(異邦人キリスト者)も私たち(ユダヤ人)と同様に、モーセの慣習に従って《割礼を受けなければ救われない》」(行伝15:1)。
 これに対して、パウロの立場はこうであった「もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに何の役にも立たない。キリストにあって価値があるのは、割礼でも無割礼でもなく、愛によって働く信仰である」(ガラ5:2、5)。
 ここではもっと鋭く、ヤコブ派を批判している13節以下で「約束」という考えが登場してこの約束が律法と結びつくかどうかが、ユダヤ教ヤコブ派の見解をふまえて論議されている。
 アブラハムが「この世の相続人となるとの約束」とは、創世記22:17以下における神の約束がふまえられている「私は大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやし、天の星のように、浜の砂のようにする。…また地の諸国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう」
 キリスト者にとってこの《約束》は「この世の相続人」というのではあいまいでポイントが明らかでない。むしろ「神の国を受け継ぐ」(マタイ25:34)「永遠の生命を受け継ぐ」(同19:29)「救いを受け継ぐ」(へブル1:14)という約束として解釈すべきだ。ガラ3:14では「約束のみ霊を受ける」。
 ユダヤ教においては、律法自体が神の約束を担うものとされたようだ。これに対して、パウロは《神の約束と律法との関連》をもっと大きな救済史の中でおいている。
 ガラテヤ3:17、18「神によってあらかじめ有効にされた契約(=約束)が430年後にできた律法(モーセの律法、出エジ12:40)によって廃棄されて、その約束が無効にされることはありえない。もし《相続が律法によるならば、約束によるのではない》。神がアブラハムに恵みを与えられたのは、約束によるのである」。ロマ4:13、14でパウロはいう「アブラハムとその子孫とがこの世の相続人となるとの(神の)約束は、律法によるのでなく信仰の義認によるからだ。もし(律法の点で敬虔な人)(直訳では「律法に基づく人」)が相続人になるのであれば、信仰はむなしくなり約束は無になるであろう」。
 この箇所についてルタ-はこう注解している「律法と信仰とはまったく相反するものである。すなわち律法は怒りと約束の喪失とを、信仰は恵みと約束の提示とをかち得ている。…あなたがたは律法によって怒りと破れとを得、信仰によっては、恵みと全世界の財産を得る。かくてアブラハムにも律法によってではなく信仰によって約束が与えられた。アブラハムの子孫であるあなたがたにもそうである」(「講解」)。
 15節「律法は怒りを引き起こすからだ」は少しわかりにくいが、律法が満たされないところ、律法違反があるところには、いつも人間の側に「罪の意識」が起きるばかりでなく(3:20)神の側にも律法が満たされないことで怒りが生じる、すなわち神の意志に逆らう人間たちへの怒りが起こる、という意味であろう。
 「律法が満たされなかったのは、律法の罪ではなく、肉の思いの罪である。この罪は律法によって証明され、恵みによって救済されなければならかった」(アウグスティヌス、ルターの講義から)。パウロは「律法がないなら違反も存在しない」という。律法はすべての者を罪人であると告発し、したがって人を約束に値しない者、神の怒りと審判と滅びとに値する者と断定する。救いへの展望が見出せないところで、人が律法をとおして罪の認識のみを得ることは一つの絶望の状況、地獄といえよう、7章。
 神の約束が律法に基づくものであるなら(ユダヤ教はそう考えているが)、神の約束は絶えず、律法違反が引き起こす神の怒りに脅かされることになる、その帰結として神の約束は「無になり」、そこでは「信仰もむなしくなる」。16節でパウロは結論的に「それゆえこの約束は、信仰に基づくものであり、したがって恵みによるのである」という。
 パウロは、信仰義認の典型的人物として、旧約聖書のなからアブラハムを取り出す。ユダヤ教の立場では、アブラハムは族長、民族的祖先法的にみた義人の典型である。