建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、信仰と希望 アブラハム4  ロマ4:19以下

アブラハム4  ロマ4:19以下

 アブラハムの信仰は、一切の絶望にもかかわらず、神の約束を受け入れるところの、希望であるといえる。
 これはなかなか含蓄のあるテーマである。キリスト者は、自分の希望の目標をもはや自分自身や、手元にある意味あるものや、自分の企ての中にではなく、むしろ神の約束(神の国をつぐ、永遠の生命にはいる、体のよみがえり)をとおして打ち開かれる信仰の領域に見出す(ヴオシュッツ)。
 ロマ4:19~25 
 「アブラハムは、信仰において弱くなることなく、自分の枯死したような体と(しかも彼はもう百才近かかった)サラの枯死したような胎に着目していた。しかしながら彼は、不信仰になって神の約束を疑うことなく、むしろ信仰において強くなって、神に栄誉を帰し、神は約束されたことを実行することもおできになることを心底、確信した。それゆえそのことが彼には義とみなされた。この『そのことが彼には義とみなされた』は、ただ彼のために聖書で確証されるばかりでなく、同じように義と認められる私たちのためでもある。私たちが信じるのは、主イエスを死人からよみがえらされたおかたであり、この主イエスは私たちの過ちによって渡され、私たちの義認のためによみがえらされたのだ」。
 この箇所ではイサク誕生にまつわるアブラハムの信仰のポイントをパウロは取り上げている。アブラハムの現実感覚は正常であって「自分の枯死したような体とサラの枯死したような胎」を無視することなく、きちんとそれをふまえていた(19節)。サラに子が生まれるとの神の約束に対して、アプラハムとサラが不可能の事柄として疑い「笑った」こと(創世17:17、18:13)にパウロは言及しないで、むしろ創世記が述べていない事柄を展開している。《人間的にみて不可能である事柄》をアブラハムはどのようにして突破したかについてである。「不信仰」(20節)とは神に信頼しないこと「神の約束を疑うこと」である(20節)。人間的には不可能な事柄がたとえどのように認識されたにせよ、その不可能性は希望の限界とはならない、というのがアブラハムの信仰形態であった。創世記はアプラハムがあの「笑い、冷笑」をどのようにして克服したかをしるしていないが、パウロはここであえてそれをこう解釈したのだ。それが18節の「地上的な期待にさからって、望みをいだいて」である。アブラハムにとって「人間的な不可能性」とは彼らの「枯死したような体」のことあるが、パウロキリスト者にとってはこの不可能性とは「死人のよみがえり」(25節)である
 「死人をよみがえらせるとの神の約束」への希望は、信仰の本来的な目印となる。信仰は自然的な可能性の墓(それが途絶えたところ)で絶えず生い立つものである(ケーゼマンの注解)。
 21節の「心底、確信した」は、ここでは限りないものとして、また神の全能の約束への喜ばしい帰依として特徴づけられている。23節以下では、アブラハムの信仰義認と私たち・キリスト者の信仰義認との対比、あるいは同一性が見られるが、約束の時、アブラハムの時と成就の時、パウロの時、歴史的救済史的な相違を認めつつ、パウロは信仰義認の同時性(キルケゴール、バルト)を強調しているという(松木、注解)。
 アブラハムが信じたのは「神」であるが(創世記15:6)、彼の信仰形態はすでに4:17において「死人を生かし、無から存在へと呼び出される神を信じた」とある。
 「死人をよみがらせるお方としての神」への信仰が強調されていた。第一に、これと対比されるのが24節の「私たちが信じるのは主イエスを死人の中からよみがえらせたお方である」
 死人をよみがえらせる神を信じる点においてアブラハムの信仰形態とパウロおよびキリスト者の信仰形態は同一なのである。ヘブル11:19引用。
 第二に、しかしながら「死人をよみがえらせる神」への信仰は、多くの困難を克服しなければ実現しない。人間の自然的な可能性の領域においては、死人のよみがえりは不可能だからである。アブラハムにおいては、他の人々以上にさめた意識をもって、死人のよみがえり、無からの創造の難局(アポリア)に直面させられた。
 彼は自らの老齢とサラのそれを自覚していたその点は「枯死したような体、胎」と表現されている。自分たちに子が誕生するという「人間的な期待」が全く絶えた状況にあることを彼はしっかりと認識していたのだ。この状況は、キリスト者の直面する「死人のよみがえりは存在しないという態度」(第一コリ15:12)と類似したものである。
 しかし、アブラハムはこの難局を突破していった。この点をパウロはさまざまな表現で強調している。「人間的な期待にさからって希望を抱いて」(18節)、「彼は不信仰になって神の約束を疑うことなく」(20節)「信仰において強くなって」(同後半)、「無からの創造、死人を生かす神を信じた」(17節)、「神は約束されたことを成就することができると、彼は心底確信した」(22節)。アブラハムの信仰は「人間的な可能性が全く絶えたところに」成立したのだ。この信仰形態がキリスト者のそれの先駆的な範例となるのだ。
 25節における「主イエスは私たちの過ちのために渡された」はキリストの苦難と死を表現しているが、ここの「渡された」受け身形は神の行為を言っており、ロマ8:32、第一コリ11:23にある。ここにはイザヤ53:5「彼はわれわれの咎のために砕かれた」12節「彼は多くの人の罪を負い執成をした」が反映している。苦難の僕がイエスへと移行されているのだ。これがイエスの十字架であった。
 パウロは3:24では私たちの義認のポイントとして「キリストの血による贖罪」をあげ、義認が過去の、ただ一度限りの十字架の出来事に根拠づけられると述べた。ロマ6:11ではただ一度限りの洗礼によって、キリスト者は「罪に対して死んだ者、キリストにあって神にに生きるものとされる」。しかしながら、キリスト者の罪の赦し、義認はただ一度限りのキリストの贖罪、洗礼とだけ結合しているのではない。もしそうなら信仰は「歴史への信仰」に変じる。義認は歴史における過去の出来事、十字架に限定されない。むしろキリスト者の贖罪、義認は(繰り返され反複される)。その第一が聖餐式である。聖餐式はキリストの贖罪の反復「主の死を想起するため」であり(第一コリ11章)、かつ復活のイエスとの愛餐の反復でもある(ルカ24章エマオの弟子、ヨハネ20章)。第二に、悔い改め、懺悔において罪の赦し・義認は反復される。
 第三に、「復活したお方との出会い」である。イエスの復活自体が《イエスの義》の証明であった。ユダヤ教教当局、ピラトの有罪・死刑判決を神が廃棄なされた出来事、それをとおして神の義を啓示する事件であった。行伝5:30引用。
 25節後半「このお方は私たちの義認のためによみがえらされた」について。最古の復活伝承、第一コリ15:3「キリストは三日目に(よみがえらされた)」は時制が完了の受動態で、主体・キリストの継続的な影響を示し、よみがりの主イエスの永続的現臨を意味する(松木)。義認をイエスの十字架とではなく、復活と結合した点が難解であるが、パウロは義認とイエスの復活とを結合することで、《信仰者の義認の出来事が、復活したイエスとの出会いにおいて絶えず生起する》と主張したのだ。
 この出会いは決して「神秘的なもの」ではない。復活のイエスとの出会いは、パウロには世界伝道への命令であった「御子を私のうちに啓示されたのは、私が異邦人のあいだで御子を宣教するためであった」(ガラ1:16。マタイ28章、ルカ24章参照)。
 復活したお方との出会いは信仰者が義と認められることの関連について、パウロはロマ8:34では復活のイエスの《現在の》働きについてイエスの《復活と執成し》を結合して述べている「死んだお方、むしろよみがえらされたお方キリスト・イエスは神の右に座して、確かに私たちを執り成すお方である」また第一コリ15:17「もしキリストが復活されなかったとしたら、あなたがたはいまだ自分の罪のうちにとどまることになってしまう」においても、復活と罪の赦しとが結合している。イエスのよみがえりへの信仰は永遠性への希望ではなくむしろ十字架につけられたお方の勝利と《その現在的な支配》を意味している(ケーゼマン)。
 25節後半「主イエスは私たちの義認のためによみがえらされた」の意味、復活のイエスとの出会いにおいて信仰者の義認が絶えず起きることまた復活のイエスとの出会いは、私たちにとって聖書の御言葉を聞く、読むことをとおして実現すること《私たちの義認も繰り返えされ反復されるという恵み》であること、をよくよくかみしめたいと思う。