建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、患難から希望へ  ロマ5:1~4

1997-15(1997/4/13)

患難から希望へ  ロマ5:1~4
 「このように信仰から義とされていることで私たちは私たちの主イエス・キリストをとおして神との平和をもっている。そしてキリストをとおして私たちは信仰によって私たちの恵みの地位への入り口に到達したのだ。そして私たちは神の栄光への希望を誇っている。しかしそればかりではなく、むしろ圧追をも誇っている。というのは、次のことを知つているからだ。すなわち圧追は辛抱を生じさせ、辛抱は確証を、確証は希望を生じさせることを。しかも希望は恥をかかせない」。
 ここでは、キリスト者に与えられた《恵み・救いの地位》、キリストの支配のもとにある信仰者のめじるしについて述べられている。
 第一に、1節の「神との平和、平安」であるが、この「平和、平安」は、決して心の落ち着き(ストア哲学のいうアタラクシア・平静)といったものではなく、むしろ神との関わり、神の怒りから解放された関係としてのものである。
 第二に、「私たちは恵みの地位への入り口に(すでに)到達した」。
 第三に、2節後半から、キリスト者独自の「誇りのテーマ」について言及されている。この誇りは「私たちは神の栄光への希望を誇っている」とある。協会訳は「喜ぶ」と訳すが、この用語は基本的に「誇る」の意味。
 希望との結合は名詞で「もし私たちが確信と《希望の誇り》をあくまで持ちつづけるなら」とへブル3:6にある(協会訳は「希望の確信と誇り」)。「誇り」のテーマはキリスト者の存在の有りようを本質的に規定すると、パウロは考えている。「肉の誇り」か「自分の弱さを誇る」かである。
 2節の「神の栄光」は神の本質論議ではなくすでに起きた神の出来事すなわち、すでに与えられた義認の《完成》を意味していて「神の栄光への希望」は《いまだ到来していない義認の完成を待望すること》。希望はここでは可能な仕方で与えられるものへではなく、すでに保証されたものへの見通しである(ケーゼマン)。
 義はすでに与えられているが、いまだ義の完成には到来していない、言い換えるとキリスト者の義認の弁証法的な性格を示している。ここで注目すべきは、パウロは《すでにといまだ》の間で、うめくのでなく「この希望を誇る」と言い切っている点である。
 3節においてパウロは将来的なもの「義認の完成」から足下に目を転じて「患難をも誇る」という。キリストの死をもって新しい世・アイオーンが到来したのだが、この到来をもって古い世が単純に消滅していくというのではなく、むしろ試練と死の危険がさらに放射される。この地上は二つの世の戦いの場である。パウロが「神の栄光への希望」ばかりでなく「患難をも誇る」という逆説的な誇りについて語るのは、いまだに持続している戦いのただ中で、すでに「神との平和」と「神の栄光・義認への希望」がすでに保証されたものであることを示そうとしているからである。
 3節から「希望の弁証法」が始まる。これに対して「約束の弁証法」は、アブラハムにおけるように、約束の実現に至る過程で人間的な修正の要求、人間的混乱が際立つたものだ。
 ルターのいう「絶望の弁証法」は興味深い。「恵みに立つていない人々においては、正反対のものも成立する。患難は焦慮を生じ、焦慮は定罪を、定罪は絶望を、絶望は永遠の混乱を生じる」(「ロマ書講義」)。
 3節後半「圧追・患難は辛抱を生じる」。
 「患難・トゥリピス」をルター、ケーゼマンは「圧迫」、ミヘルは「試練」、アルトハウスは「苦境」と訳す。ここの「トゥリピス」は、信仰者が出会う一般的な苦境のことではなく、むしろキリストに服従することにおいて出っくわす終末時の圧追、患難の意味である。信仰者がこの苦境に出会う時にとる行動には、逃亡(エリア)や硬直(出エジプト6:9)、挫折(エゼキエル37:11)、嘆き(エリア、イザヤ49:14)、反発(ヨブ)があるので、パウロの述べる「圧迫は辛抱を生じる」が、けして自明でない点は明らかである。「辛抱・ヒュポモネー」は一般的には「忍耐・Geduld)」と訳される(ミヘル、アルトハウス)。忍耐・ヒュポモネーはプラトン以来、悪に対する「勇気」とみなされてきた(「ラケス」)。ヒュポモネーが決して受け身的でないことが大切。「辛抱・Ausdauer」という訳語は「苦しみの甘受」(オデゥセウス)でなく、出っくわす圧迫・患難を受けとめて、その圧迫にじっと踏みとどまって堅く立つこと。バルトの訳「堅忍」はよい訳である。
 「辛抱は確証を生じる」。「確証・練達・ドキメー」はひときわパウロ的用語というべきで、他に第二コリ2:9、ピリピ2:22。苦しい試練、吟味をとおしてその者が本物であることが確証されること。旧約聖書では金や銀を熱して精錬することで、不純物を取り除いて純粋の金銀を取り出すこと。イザヤ48:10「見よ私はあなたを練った。しかし、銀のようにではなく、むしろ苦しみの炉であなたを試みた」、日本語では苦しい目に会って鍛えられ、したたかになること、堅忍不抜のニュアンス。バルト訳は「練熟」。ケーゼマンの訳語「確証・Waehrung」は少しあいまいに響くが、直訳した。
 ヤコブ1:3では、こことは逆に「あなたがたの信仰の《試みられ鍛えられること》が辛抱・忍耐を生じる」とある。ここでも第二イザヤの言葉にあるように、キリスト者に圧迫を加えているのは神ご自身である、とみるべきである。決して試練をとおして人間が自分の力で練熟していくというのではなく《神が苦難の炉でキリスト者を試みられる》、パウロキリスト者の出会う患難、試練、追害、確信の喪失などを終末時のものととらえている。しかも、ここでの信仰者を導いていくのは「義認の完成への希望」という展望であり、この希望の将来に自分を解き放っている姿勢がドキメーである。これが、パウロ個人の見解というのでなく、恵みの体験に基づく「キリスト者の共通の認識」と述べている、「私たちは知つている…」3節。
 「ドキメーは希望を生じる」。バルトはこの箇所について「練熟が、人々があらゆる望みを失うまさにその門口で新しい、しかもつねに新しい望みをもたせる」と述べている。この希望を生じさせる主体は、神である。「私があなたがたに対して抱いている計画は、あなたがたに将来と希望を与えるものである」(エレミヤ29:11)。注解者(ケーゼマンら)が内容的に関連しているとよくあげるのは感謝の詩篇9:11~14である、
 「あなたはしもべの口に析願を授け、わが生命を責めず、わが平安を取り除かず、わが希望を無視したまわなかった。打撃を受けても、あなたはわが霊を立たせたもうた。私が苦しむ時あなたは私を慰め、私はあなたに赦されて喜ぶ。望みはあなたの恵みから、確信はあなたの大いなる力より出ずることを、私は知る」。
 ここでも「望みは神の恵みから出る」と述べられている。
 パウロにとっての限目は、ドキメーという語の心理学的な意味づけ「堅固な魂の調子」(リーツマンの訳)ではなく、むしろ神の力によって可能となるひとつの実行、キリスト者を希望へと打ち開くところの、実行である、というヴォーシュッツの解釈はすぐれている。パウロは決して人生上の悟りや徳目、洞察として「練達が希望を生じる」と言っているのではないからだ。それゆえこの「希望の弁証法」-患難、辛抱、確証(練熟)、希望-は信仰者の「極意」というのでなく、キリスト者の「恵みの地位」神の支配のもとでのみ成立する、キリスト者の道筋であるといえる。
 5節前半「希望は恥をかかせない」。ここは詩22:5「祖先・彼らはあなたに信頼して恥をかかされなかった」に由来する。「恥をかかす」は「希望などがついえさる、挫折する」の意味であるが、パウロにおいては、希望、義認の完成への希望が決してついえさることがない。そして「なぜ希望はついえさることがないか」これをパウロは5節後半で展開している。
 5節後半~8節「神の愛が、私たちに与えられた聖霊をとおして私たちの心に注がれている。なぜなら私たちが弱かった時に、すでにその当時キリストが神なき者のために死んでくださったからだ。義人のために死ぬような人はほどんといない。善人のために死を企てる人はおそらくいるであろう。しかしながら私たちがまだ罪人であった時に、キリストが私たちのために死んでくださったことによって、神は私たちに対する愛を示したもうた」。
 5節後半の「神の愛」について、アウグスティヌス(5世紀)がここを「神への愛」と翻訳したことはよく知られている。彼は堕落以後の人間の愛を「クピディタス・欲望的愛」と呼び、神よりも地上の事物を求め、それを愛する形と特徴づけた。