建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

羊飼へのお告げ ルカ2:8~11

1996-32(1996/12/8)待降節

羊飼へのお告げ ルカ2:8~11 

 「この地方の羊飼たちが野にとどまって、群れの夜番をしていた。すると一人の主のみ使いが彼らに近づき、主の栄光が彼らのまわりを照らした。それで彼らはすっかりおびえてしまった。そしてみ使いは彼らに言った『恐れることはない。見よ、私はあなたがたにすべての民に与えられる大いなる喜びについての使信を伝えるからである。今日、ダビデの町にあなたがたのために救い主がお生れになった。このかたは主キリストである。あなたがたはみごり児が布にくまって、飼い葉桶に寝ているのを見出すであろう。それがあなたがたにとってのしるしである』」
 8節から場面が変わって、ベツレヘムの野に移る ベツレヘムの近くの牧草地では昔から羊飼いが羊を飼っていた。ダビデもかってそこの羊飼いであった(サムエル上16:19)。そこには「羊飼いの野」があり、ひさし状の岩の出つばりがあって風雨をよけるのに好都合の場所もあるという(ジュールマン注解)。
 「羊飼い」は牧草を求めて、あちらこちらを羊と共に移動、さすらう仕事であり、通常他人の土地に侵入して、羊に草を食い荒らさせるので、イエスの時代には泥棒同然の職業であり「罪人」に数えられたようだ(エレミアスがこのポイントを強調する)。ここに登場する「羊飼い」もさすらいの人々かもしれない。「とどまって」は一時的な滞在を意味すると解釈できるからだ。
 「羊の群れの夜番」は、むろん羊飼たちが夜間交替で、羊を盗む人や獣から羊を守る番のことである。「夜番」のニュアンスは、決して牧歌的なものでなく、それに携わる人間の社会的な立場の低さ、経済的貧しさをイメージする。18世紀中頃のデンマークで貧しい羊飼いであったキルケゴールの父ミカエルは、少年のころ寒さと飢えで苦しみ、思わず神を呪ったという。羊飼いという職業のもつ一つの側面が明らかになるエピソードである。ヴェントラントの注解はこう述べている「ここで羊飼たちが登場するということは、お生れになったこの王がどのような種類のお方かを際立たせている、すなわちこの王は身分の低い者たちと軽蔑された人々の中にご自身の民を探し求められるのである」。ディベリウスもこう語る「羊飼は証人にも裁き人にもなれず、人々は彼らから物を買わなかった。彼らは船乗り、取税人と共に軽蔑され、恐れられ、平和の攪乱者とみなされた」(ディベリウス「処女の男の子と飼い葉桶の幼児」1932)。
 このポイントは重要である。というのは、旧約聖書以来「神はイスラエルという群れの羊飼いである」という見解が広まっているからだ。「私みずからわが羊を飼い、これを伏させると、ヤハウェは言われる」(エゼキエル34:15)「ヤハウェは私の牧者・羊飼いである」(詩篇23)。この見解が、ルカの降誕記事にある羊飼たちに無意識に「読み込まれ」、当時の羊飼の社会的な身分の問題が「抜け落ちる」結果になるからだ。当時の感覚からみると、羊飼がみ使いのお告げに出会い、また生まれたメシアに拝謁するというのは十分「つまづき」となりえた。言い換えると、イエスというメシアの誕生に関連して処女マリアは「主は心の思いのおごり高ぶる者を追いちらし、権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を善きもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせたもう」と「社会的な価値の転倒」を歌いあげたが(ルカ1:51以下)、この羊飼へのみ使いのお告げというテーマも、同じように社会的な身分、価値観の転倒が起きた、逆説の出来事と考えられる。
 羊飼たちは、3月の過越しの祭りの時期から11月末から12月始めころまで、夜間野外で、羊たちと共に野宿するようだ。この事実からすると、羊飼たちの野外での野宿は冬でない時期を前提としている。それ以外の冬の時期には、羊は囲いのある小屋などにいれたようだ。したがって羊飼いらが夜の番をするのは、冬の時期ではなかったことになる。
 9節。「み使いの登場」は、ルカ1:12ではザカリアに、1:26以下ではみ使いガブリエルの登場。「主の栄光の輝きの出現」は、地上的なものを超えた現象を述べているが、これはルカでは、行伝9章で「突然天からの光がさして、パウロを巡り照らした」と同様、神の啓示の出来事を示している。「クリスマスの使信は意識的な逆説をもってまず泥棒であり、軽蔑された人々、羊飼たちにもたらされた」(ディベリウス)。
 「羊飼たちはすっかりおびえてしまった」「恐れることはない」。神的啓示の出現に対する人間の反応は常に「恐れ」である(9、10節)。1:12ではザカリア、1:30ではマリア、24:5では空虚な墓。ここの「すっかりおびえた」(塚本訳)は原文では「大いなる恐れで恐れさせられた」。また「大いなる恐れ」は明らかに次の10節にある「大いなる喜び」と対句になっている。ルカは、神的な啓示に出会う人間には、身体的な障害を引き起こすとみる。ザカリアは子の誕生まで口がきけなくなった(ルカ2:30)、パウロは復活のイエスの栄光の光に出会って目が見えなくなった(行伝9章)。         
 み使いの出現や他なる世界からの栄光の出現は羊飼たち、人間を《恐れさせる》。そしてこの《恐れを取り去る》のは、み使いの語る言葉である。
 10節。み使いの告げる使信は四つの内容をもっている。イスラエルに関する大いなる喜び、救い主の誕生、しるし、新しい御国の讃歌である(ディベリウス)。
 「大いなる喜び」。10節「恐れることはない。見よ、私はあなたがたに、すべての民に与えられる、大いなる喜びについてのよき使信を伝えるからである」。この箇所についてディベリウスはこう解釈する
 「《大いなる喜び》は救いの時のしるしに属すものである。ここで語られた喜びは《メシア的な喜び》であって、ルカ1:14にある洗礼者ヨハネについての《多くの人々》の喜び以上のものである。しかしこの喜びは宇宙的な喜びではなく、むしろ民全体のための喜びとして出現する。『イスラエルの民全体への』は精確にユダヤ人と関連づけられるべきだからである。救いも喜びも天と地とに関連していることは、み使いの賛美においてはじめて現われる。それに対して、ここでは確認できるのは、イスラエルのためのメシア的な救いはヘレニズム的な神顕現を思い起させる言葉で描かれている点である」。
 11節「今夜《ダビデの町に》あなたがたのために救い主がお生れになった。このお方は主キリストである」。この「ダビデの町に」という表現で言われているのは、神によって派遣されたある種の救済者が考えられているのではなく、むしろダビデの町とダビデの家系から出る特定の救済者、メシアである救い主が期待されている、というこである。したがって「主キリスト」という表現自体は新しいものではない。
 「主のキリスト(メシア)」(むろん「キリスト」という語はへブル語の「メシア・受膏者」のギリシャ語訳である)という表現は2:26にも出てくる。この「主の受青者・メシア」という表現は、旧約聖書偽典ソロモンの詩篇17:36「ヤハウェに油注がれた者」として出てくる。この「主なるキリスト」という表現は古い伝承にも出てこないので初期のキリスト教の伝承、ルカ伝にあるということは注目すべきである。ルカは「主」をイエスを指しているものとして用いた最も古い証人である(ディベリウス)。
 待降節の中にあって、社会的に軽蔑され、いわば交わりから遮断されていたような羊飼たちに、み使いが近づき、メシアの誕生を告げられた、このメシアは身分の低い、軽蔑された人々の中にご自分の民を探し求められることをかみしめたいと思う。 つづく