建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、神の愛の提示  ロマ5:5~8

1997-16(1997/4/20)

神の愛の提示  ロマ5:5~8

 「神の愛が、私たちに与えられた聖霊をとおして私たちの心に注がれている。なぜなら私たちが弱かった時に、すでにその当時キリストが神なき者のために死んでくださったからである。義人のために死ぬような人はほとんどいない。善人のために死を企てる人はおそらくいるであろう。しかしながら、私たちがまだ罪人であった時に、キリストが私たちのために死んでくださったことによって、神は私たちに対する愛を示したもうた」。
 5節後半「神の愛」について、アウグスティヌス(5世紀)がここを「神への愛」と翻訳したことはよく知られている。アウグスティヌスは、堕落以後の人間の愛を「クピディタス・欲望的愛」と呼び、神よりも地の事物を求め、それを愛するという。 したがって神に全る真の愛は、ただ神がそれを人間の心情に神へと同う愛を「注ぎ入れる」ことによって、人間の中に「カリタス・愛・仁愛」が可能となる。そしてこのカリタスによって人間は神と大的な事物を愛するに全るという(松木、注解)。
 ニーグレンはこれに対して、パウロアガペーを常に「神の愛」あるいはキリストの十字架において不された愛「十字架のアガペー」の意味で用いている、決して「神への愛」には用いないと主張する。しかもマタイ22:36~40における「神への愛と隣人愛」とは異なって、パウロは「神への愛」についてほとんど語らないという(「アガペーとエロース」)。
 歴史的にはオリゲネス(3世紀)がはじめてここの訳として「神の愛か、神への愛か」を問い「神の愛」と結論づけたという(ミヘルの注解)。しかしながら「神への愛」と翻訳する立場は、アウグスティヌス以後も後を断たない。例えばルターである。ルターはまだ「アガペー・愛」に対してアウグスティヌス的にラテン語「カリタス・仁愛」との用語を用いる。ルターはいう「《神の仁愛・カリタス》は神に対する最も純な愛情であって、これのみが心の正しい人間を創り、邪悪を除去し自分自身の義を楽しむことを根絶する、すなわちただ一人のきよい神を熱愛し、逆に偽善的な功利主義者がするように、神の賜物そのもののほうを熱愛しはしないからである。…注意すべきは、《神のカリタス》といわれていることである、なぜならこのカリタスによって私たちは神のみを熱愛するからであり、カリタスはすべてのものを超えて、見えず、経験しえず、把握しえぬ神の中に引きずりこまれるからだ」(「ロマ書講義」)。
 カール・バルトは、まずここを「神への愛」と翻訳する。バルトは「聖霊は本来われわれの中にいまさなかった。しかし今やこの聖霊をとおして《神への愛》がわれわれの心に存する」(ホープマン)を引用しつつ、続ける、
 「したがって人間にも神を愛しうる《私》《われわれ》が《心》があるわけである。この神の賜物が人間を破却して神の中に人間を確立することによって、人間が『神の不可視性』を「解し、これを神観とし、ヨブのよつに、自分の存在が有する問題性の奥から自分を凝視している明確な否の中に、ついには神の最後のしかりを認めうる。…神を愛するというのは不可能なことである。すなわち神への愛とは、被造物がその創造者を愛し、断罪された者がその審判者を愛し、殺戮された者がその敵を愛し、犠牲にされた者がその犠牲にした者を愛し、しかも後者がそのようなことをする《ゆえに》、またしかしながら神であるという理由で、また神を愛さ《ない》ことはなおいっそう不可能であるという理由でのみ、神を愛することを意味する。…神への愛といっても、それは神ご自身のみ業であって、もし神がまずわれわれを愛したまわなかったならば、その愛も存在しないであろう」(「ロマ書講解」)。
このように「神の愛」についての解釈の歴史をみてくると、ニーグレンの解釈をもってすべて決着がっいたとはいえない。他方新約聖書の学者たちは、すべて「神の愛」の立場をとっている、松木、ミヘル、ケーゼマン。この用語はそれ自体では決着つけられないので、文脈をたどっていって、パウロが内容として神の愛、神への愛をどのよつなものと述べているかを把握する必愛がある。6~8節。
 「私たちに与えられた聖霊をとおして」。ここでは「神の愛と聖霊との関連」を述べている。神の愛と聖霊を同じものとはパウロは述べていない、「信仰者に聖霊が注がれる時に、神はその愛を信仰者に知らせる、《聖霊は神の愛を開示させる働きをもつ》」(ミヘルの解釈)。5節前半を受けて、聖霊は希望がついえさることがないないことに対する担保であり、聖霊は神の愛を確かなものであることを絶えず新たに確信させる、と関連づけることもできる(ケーゼマン)。
 神の愛の「ふり注ぎ」は受身の完了形であって、現在への働きかけを強調する。ドイツ語訳は現在形「状態の受動形 ist ausgegossen」にきちんと翻訳している。神の愛とはどのようなものかについては、8節が述べているが、キリストの十字架の死が神の愛の提示であった、すなわちこれは《過去の》キリストの死の出釆事であった。しかしながら、この愛は過去の救いの出来事で完了したのではなく、現在もなおアクティブに、リアルに示され続ける、それがここの「聖霊をとおして」である。聖霊は、過去における「神の愛の出来事」を《現在化し永続化》しているのだ。しかも「私たちの心の中」ということで、人間存在の心髄、中心、心情において体験される、と言われている。
 どのようにしたら神の愛は聖霊をとおして確実なものとなるかについては、6~8節が回答している。
 6節「キリストは私たちがまだ弱かった時、その当時、神なき者のために死んでくださった」。ここの「その当時・ガタ・カイロン」は「ちょつどよい時に・時をたがえず(前田訳)」「時いたって(協会訳)」という意味ではなく、「その当時」の意味。キリストがその救いの業を「思いもかけない、ふさわしくない時に」なし遂げられたことを強調している。ここでは「当時の私たち」について「弱かった」「神なき者・敬虔でない者」「罪人」(8節)とある。ここでの「弱さ」は、誘惑に負けたり、律法を実践できない人間の無力さを意味している。
 7節「義人のために死ぬ者はほとんどいない」、「善人のために死ぬ者はおそらくいるであろう」。後半の「善人」は特に価値のある重愛人物のこと。パウロはこのような事態を認めている。
 8節「キリストが私たちのために死んでくださったことによって神は私たちに対する愛を示したもうた」。「私たちのために・for us」は「私たちのために、私たちの代理的として」の意味。  「神の愛は、救いを創り出し、無からの創造を示し、神の怒りを終らせる、全能であり、義認の基となるもの、それを保持するものである。キリストの死において神の愛が具体的に宣言されていること、キリスト教の確かさの根拠はここにあるといえる」(ケーゼマン)。
 それゆえ神の愛の提示は「過去におけるキリストの死」、過去における神の行動であった。しかしそれのみではない、神の愛が過去のものでない、現在のものである点は《現在における聖霊のふり注ぎ》として述べられている(5節後半)。これを受けた者たちは《実存の変化》をとげるとケーゼマンはいうが、この変化の一つが、先の「神の愛か、神への愛か」のテーマと重なる。すなわち、パウロは信仰者の心に「神の愛が注がれる」時、信仰者の心の中に《神への愛を燃え立たせる》のを体験的に知つていた(アルトハウスの注解)。神の愛が信仰者に注がれ、注がれたその愛が信仰者によって知られ把握されると信仰者のその愛は注がれたお方に向かって、他の人々に向かっても、その愛の反射として、愛するようになる。愛は一方から他方へと一方的に向うものではなく、愛された者は愛し返すといつか、相互的、応対的な愛を、神の愛は創り出すという状況を生む。したがって、神の愛は信仰者における受身的、個人的なものではなく、共同体的、社会的であり、応対的な能動的な愛を創造するといえる。