建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、アダムとキリスト  ロマ5:12~16

1997-17(1997/4/27)

アダムとキリスト  ロマ5:12~16

 「それゆえ一人の人間をとおして罪がこの世にやってきたように、またこの罪をとおして死がこの世にやってきたように、すべての人間に対して死が押し寄せてきた。すべての人間が罪を犯したからだ。律法(授与)に至る時期にも(すでに)この世に罪は存在していた。しかし罪は、この手もとにある律法なしには(罪として)記帳されなかった。同じように、アダムとモーセの間の時期においても、アダムの違反行為と同じ形の罪を犯さなかった人々に対しても、死は支配していた。このアダムは将来的な人間の対立像である。むろん恵みの業の場合、堕落の場合とは同じではない。というのは一人の人間の堕落をとおして多くの人が死んだとすれば、神の恵み、すなわち一人の人間イエス・キリストの恵みの力をもって与えられた賜物は、ますます豊かに多くの人に対して殺到するからだ。かくて賜物が与えられることと、一人の罪人がもたらすものとは、別様である。というのは審判は一人の人から(はじまって)罪の(死の)判決へと至らせるが、しかしながら恵みの業は、多くの人の違反行為から(はじまって)義認(義の判決)へと至らせるからだ。一人の人をとおして、一人の人の違反行為をもって、死が支配権を得たとしたら、義認の賜物をもってあふれる恵みを受ける人々は、一人の人イエス・キリストをとおしてますます確かに生命の領域で、支配するであろう」ケーゼマン訳。
 この「アダムとキリスト」(12~21節)のうち、12~15節はアダム論。ここでは、罪がどのようにしてこの世にやってきたか、どのようにして死がもたらされるか、についてパウロは述べている。「堕落」(15節)の場合、神は人間に捨てられ、加害され否定される。この場合神がその所有物を強奪されたもうということ、この強奪は神に対するものであるから、これによって神のほかに神のような力(罪)が世界に出現するということ(12節)、これが罪の本質である」(バルト)。
 後期ユダヤ教の黙示文学は「アダムの罪による個々人への死の到来」についてのべている。パウロはこれをふまえて論議を展開している、(1)死は、アダムの罪によって人々の上にやってきた運命である。第四エズラ3:21「最初のアダムが那悪な心の重荷を負って罪を犯し、打ち負かされた。それだけでなく、彼から生まれたすべての者も同様になった」。シリア語バルク黙示録54:15、19「最初のアダムが罪を犯して万人の上に時ならぬ死をもたらした。アダムは彼自身に対してのみ誘因であり、しかしわれわれすべては各々が自分自身にとってアダムとなった」。第四エズラ3:7「あなたはアダムにあなたの禁令を一つだけお与えになった。しかし彼はそれを犯した。そこであなたは直ちに彼と彼の子孫を死に定められた」。(2)ここでは、人はアダムゆえに死の運命のもとに置かれるのではなく、「われわれ自身がすべてアダムとなる」すなわち自分の責任において犯した罪のゆえに、死の運命に巻き込まれる、とある。
 12節の「(アダムの)罪によって死がやってきた」について、アンセルム(12世紀 イギリスの神学者)はいう「人間が罪を犯すことによって神のものを奪うごとく、神も罰することによって人間のもの(生命)を取り去りたもう」。パウロは神の与える罰を「報い」と呼ぶ。「罪の報いは死である」(ロマ6:23)。この点では「すべての人に死が押し寄せてきた、すべての人が罪を犯したからだ」は、人間が逃れることのできない罪と死との連関、連鎖を言っている。
 13節。モーセに対する律法の授与の以前にも、罪は存在していた、罪の力がこの世において支配していた。律法なしにはこの罪は数えられず、罪として認定もされなかった。ロマ3:20。14節で律法が登場する以前の時期は「アダムとモーセの間の時期」と呼ばれている。「アダムの違反行為」とは、律法・規範の登場によって、人間の思いや行為を測定することが可能となり、律法、神の戒めに「違反しているかどうか」が明確になったこと。しかしながら律法に規定されていないこの世の人々は神に対して背き、その結果「死の運命へと引き渡された」。
 15節で新しい展開が起きている、「むろん恵みの業の場合、堕落の場合とは同じではない」。「《一人の人》(アダム)の堕落をとおして《多くの人》が死んだとすれば、神の恵みと(すなわち)一人の人イエス・キリストの恵みの力をもって与えられた賜物は、ますます豊かに多くの人に殺到するからである」。この新しい展開は「神の恵みとイエスキリストの恵みの賜物」と「恵み」が二度出てくることから明らかとなる。この「恵み」は「義認(義の判決)」と呼ばれ、16節、「神の賜物は永遠の生命である」6:23。
 アダムとキリストとの対比、両者は共に「一人の人」と呼ばれ、「多くの人」に決定的な作用を及ぼした。相違点としてはアダムの場合「堕落」、キリストの場合「恵みの力」。アダムの場合「多くの人への死」、キリストの場合「多くの人への恵みの賜物」。
 16節では両者の相違点はより明確になっている。「賜物が与えられるものは、一人の罪人が作用するものとは同様ではない。というのは、審判は一人の人(アダム)から(始まって)罪の(死の)判決へと至らせるが」、しかしながら、恵みの業は多くの人の違反行為から(始まって)義認(義の判決)へと至らせるからである。一人の人(アダム)をとおしてすなわち一人の違反行為をもって死が支配権を握ったとすれば、義認の賜物をもってあふれる恵みを受ける人々は、いよいよ確かに一人の人イエス・キリストをとおして生命の領域で支配するであろう」。
 前半。アダムの違反行為に対する「神の審判・クリマ」によって、アダムに依存するこの世の人々には「カタクリマ・有罪判決・死の判決」がもたらされた。用語は法的用語である。アダムの反逆行為は個人に限定されるものではなく、病原菌のように世全体に感染する作用をもった。これに対して後半「恵みの業・カリスマタ」は、同じ事実、すなわち「多くの人の違反行為から」、決定的に異なった判決「義の判決・義認・デカイオーマ」をもたらした。この義の判決は単に法的な判決にとどまらず、義に至らせる神の行為である。
17節「一人の人・アダムの違反行為をもって死が支配権を握ったとすれば、義認・義の判決の賜物をもってあふれる恵みを《受けている》者たちは、いよいよ確かに一人の人イエス・キリストをとおして《生命の領域で》《支配するであろう》」。ポイントはこれらの判決がもたらす結果である、アダムの違反行為に対する「有罪判決・カタクリマ」とは「死の判決」であるから、その結果は人にもたらされるのは「死」であり、パウロはこれを「死が支配権をにぎった」という。これに対して「カリスマタ・恵み」は個人に与えられるものではなくむしろ「恵みの業」、「一人の人イエス・キリストをとおして」のキリストの業を示す。この「恵みの業」は、死の支配する領域に出現したものであって、有罪判決、咎を破棄させるという変化が起きたこと。ユダヤ教のイエスへの有罪判決の破棄は、すでにキリストを復活させた神の判決として起きたが)さらにアダム、モーセで表現される古い世から、「キリストをとおして」「恵みの業」が作用している「新しい世への移行」をも示している。ここでは死の支配権が破られ、キリスト者による生命の領域での支配権が確立されるという将来が語られる。
 この新しい世の出現の特徴、目じるしは、むろんキリストの支配であるが、パウロはここでは、キリスト者の新しい存在様式、その現在と未来をあげている。すなわち(1)キリスト者は「義の賜物」罪ある者を義の判決を出した神の賜物、恵みを「受けている」事実を「現在形」でパウロは示す。(2)キリスト者は死の支配の領域から「キリストの復活の力としての生命の領域に」移されたが、だがキリストの復活の力としての「生命の領域でのキリスト者の支配」をあくまでも「未来形」でパウロは語り、いまだ現在形ではないと言っている。「支配する」は「神の支配・国・バシレイア」の動詞で、この「生命の領域で」が「神の国」あるいは「永違の生命の国」であることを示している。ここでもバウロは「すでにといまだ」との緊張関係に固着している。この復活の力としての生命(終末的な生命)は、第一に、キリスト者(共同体)の罪の赦しに関しては「すでに実現していて」、キリスト者を罪赦された存在として「新しい生命に生きる」(6:4)ようにさせている。第二に、この復活の生命は「死人を生かす」もの、すなわち「死の克服として生命」であって、キリストにおいてのみ実現したものであるが、キリスト者においては実現していない。パウロはここで「永遠の生命」(6:4)への希望をキリスト者が「キリストをとおして生命の領域で支配する」将来への希望と表現している。