建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、洗礼1 キリストへの洗礼 ロマ6:1~5

1997-18(1997/5/4)

洗礼1 キリストへの洗礼  ロマ6:1~5

 「では私たちは何と言うべきか。恵みをますます拡充するために、私たちを罪のもとにとどままらせるのであろうか。決してそうではない。私たちが罪に死んだとすれば、どうして罪の中に生きることなどできようか。それともあなたがたは知らないのか。イエス・キリストへと洗礼された私たちは、彼の死の中へと洗礼された、ということを。また私たちは彼の死の中への洗礼をとおして、彼と共に埋葬されているのだ。それはキリストが父の栄光をとおして死人からよみがえらされたように、私たちも新しい生命の現実に歩むためである。すなわち私たちが彼の死と同じ姿に結びっけられるならば、彼の復活と同じ姿に結びっけられるであろう」ヴィルケンス訳。
 1節は5:20「罪が増加するところに恵みも満ちあふれた」をふまえた修辞的な問いである。パウロの基本的な「恵み論」(恵みは常に罪を凌駕していく)に対するユダヤキリスト者の誤解をふまえている。パウロの立場に対する同じような歪曲は3:8「善をきたらせるために、私たちは悪をなそうではないか」にも見られる。ここの「恵みを拡充するために、罪のもとにとどまろう」との歪曲的見解は「ローマの教団の内都におけるユダヤ主義的な異論」とみなされている(ヴィルケンス「注解」)。パウロが「罪の増加するところに恵みも満ちあふれる」と述べたのは、「恵みの力の増加」があくまでも「罪を克服し、かつ罪の普遍的な支配に取って代わる」ことを言ったのであって、単に「恵みの力の增加」へと至らせることではなかった。
 2節。「私たちが罪に死んだ」において、「罪」は私たちの「主人として罪」と私たちの所有関係を表現している。「どうして《その中に》」は「罪に支配された領域」を言っている。そして「罪に死んだ」は不定過去形であるから「一度かぎり決定的に自分たちを支配している罪との関係に死んだ」という意味。そして「一度限り罪に死ぬこと」はほかでもなく洗礼をとおして実現するというのが、パウロの立場である。現代のキリスト者がたとえ洗礼を「単なる儀式」と考えるとしても、それはパウロの立場とは全く異質のもので、パウロは洗礼を「礼典的な死」のみならず一度限りの「罪の死」を現わすもの、したがって単なる儀式とみなしていない。
 3節。この点が3節以下で展開されている。それがよく知られた「洗礼論」である。洗礼のことをギリシャ語では「バプテスマ」というので英語、ドイツ語でもそういう。
 「それともあなたがたは知らないのか」においてはよく知られていたと思われる、洗礼式の伝承を示唆している。
 「キリストへと洗礼された私たちは、彼の死へと洗礼された」。「キリストへと」は、第一コリ1:13、行伝8:16「彼らは主イエスの《名によって》洗礼を受けて」、マタイ28:19「父と子と聖霊の《名で》」と関連し、キリストの名に「託して」の意味である。したがってここは「キリストの名へと、キリストの名で」の短縮形であろうとされる。
 「彼の死へと洗礼された」は、「十字架につけられたキリストとつなぎ合わされる」(シュナッケンブルク、5節「接木されて」)、「キリストへと、すなわちキリストへと自分を託して」は、受洗者は洗礼の水につけるという行為において(ここでの洗礼は「浸礼」しずめの洗礼であって、水をふりかけるだけの「滴礼」ではない)、キリストの死の出来事のなかに自分を渡す、委ねる、という意味である。
 4節前半。「彼の死の中へのの洗礼をとおして、私たちは彼と共に埋葬されている」。それはキリストが父の栄光をとおして死人からよみがえらされたように、私たちもまた新しい生命の現実に歩むためである」。キリストへの洗礼は、キリストの死の中へとつけられるとであるから、この「つけられる」が、「私たちが彼と共に理葬される」を意味している。第一コリント15:3以下の、キリストの死、埋葬、復活というキリストの運命に「キリストの死の中につけられる洗礼をとおして」私たちは参与させられる。
 そしてこの「埋葬・水につけられる」目的は、4節後半にしるされている。「それはキリストが父の栄光をとおして死人からよみがえらされた《ように、それと同じように》私たちもまた新しい生命の現実に歩む《ためで》ある」。ここでは「洗礼の作用」を明らかにしている。洗礼をとおして、キリストのたどられた運命と私たちキリスト者のそれとの間の対応関係《ように、それと同じように》が効力を発揮するようになる。その効力がキリスト者の生、歩みにおいて現われる。それは罪の中にある歩みではなく、キリストにおける歩み、キリストがよみがえらされた点との関連では「新しい生命の現実における歩み」を実現する。「ためである」とは神の意図を示している。義とされた罪人を洗礼をとおして罪の支配領域から救い出し、キリストの復活をもって開始された新しい創造という生命の領域の中におく、これが(1節の)「恵み」である。「新しい生命」における「新しい・カノテーズ」は復活をとおして始まった「新しい創造」の現実(第二コリ5:17)を意味している。
 5節。「すなわちもし私たちが彼の死と同じ姿に結びつけられているなら、(彼の)復活ともそうなる(同じ姿に結びつけられる)であろう」。この箇所は難解なポイントが二つある。「結びつけられて」 は本来「(根を張った幹に接木されてその木は)共に成長する」という意味。キリスト者は「キリストご自身」に結びつけられるのではなく「キリストの死と《同じ姿》に」結合される。難解なポイントの第一はこの「同じ姿・ホモイオーマ」である。これはパウロ好みの用語で、8:3「罪の肉と《同じ姿》で」、ピリピ2:7「キリストは一人間と《同じ姿》になられた」などにある。この用語は別のものが「似ている」ということではなくて、「具体的な同じ姿」、すなわち「ホイオーマ・同じ姿」は本来の者の「もとの姿・源像」というものがあって、それとは区別される、同一化されないところの「同じ姿」をいう、ヴィルケンス。ピリピ2章の「キリストは…人間と《同じ姿》となられた」は、キリストは「神の形」でありつつ「僕の姿」へと変態した、したがって人間と同一でありつつ人間と異質であったとの弁証法、キリスト論を意味する。ここではキリスト者は洗礼において、キリストの死へとしずめられるが、キリストの死(源像としてのもの)と同一化されないまま、しかも「彼の死と同じ姿に結びつけられる」。異質性をもちつつ、同じ姿となる。他方「キリストの死と同じ姿一洗礼」はシンボル、儀式的なものと解釈することはできない。あくまでも罪の支配からの解放を意味していて、そこに神の力が作用していると、パウロはみなしているからだ。
 復活への関わりが第二の難しいポイント。協会訳は「彼の復活の様にもひとしくなるであろう」。この訳は原文にない「同じ姿」を補って訳しているが、この訳がほとんどである、松木、ケーゼマン、ヴィルケンス訳は「彼の復活と《同じ姿に結びつけられる》であろう」。
 ここの「キリストの復活と同じ姿に結びつけられる」は未来形である。確かにキリスト者がキリストの復活と同じ姿となるのは将来的であろう、ピリピ3:21。しかしながらここの洗礼論では、パウロは、洗礼におけるキリストの死への参与を、新しい生のために絶対不可欠のものとみなしている、4節。というのは、洗礼はあくまで礼典的なもであるが、それが単なる儀式に終らないのは、キリストの死という神の救済の出来事にキリスト者を導き入れるという、神の力が働いているとパウロは考えているからだ。言い換えると洗礼は現在キリスト者が「礼典的-サクラメンタルに死ぬこと」なのであるがそのことでキリストの死が現在化されるのでなく、キリスト者は過去のキリストの死へと自分を託す。この託す行為・洗礼をとおして「新しい生命の現実に歩み」ことが実現するからである。「キリストの復活と同じ姿となる」のは確かに将来的であるが、キリストの復活をもって実現した「新しい生命の現実」、古い生命、罪のもとにある生命の終わりと新しい生命の現実はすでに「現在の事柄」である。