建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、神のための奴隷  ロマ6:15~23

1997-20(1997/5/18)

神のための奴隷  ロマ6:15~23
 「ではどうなのか。私たちが律法のもとにではなく、むしろ惠みのもとにいるということで、私たちは罪を犯すべきなのだろうか。決してそうすべきではない。あなたがたは知らないのか、あなたがたが奴隷として服従するのにゆだねている者、あなたがたはその者の奴隷なのであって、その者に服従しなければならない。罪の奴隷として死に至るにせよ(信仰の)服従の奴隷として義に至るにせよ。しかし神は感謝すべきである、あなたがたは罪の奴隷で《あった》が、しかし伝承された教えの型に心から服従して、罪から解放され、義のための奴隷とさせられたからだ。人間的な言い方をすると、それはあなたがたたの肉の弱さのためである。すなわちあなたがたの肢体を汚れと不法の奴隷として不法(の行為)にゆだねていたように、《いまや》あなたがたの肢体を義の奴隷として聖化にゆだねなさい。あなたがたが罪の奴隷であった時、あなたがたは義に対して自由であったが、《その当時》どんな結実をあなたがたは得たであろうか。いまなら恥じるようなことばかりであった。それらの終局は死であったから。しかし《いまや》、罪から解放されて、神のための奴隷とさせられて、あなたがたは聖化への結実を得ている。その終局は永遠の生命である。罪の報いは死である、しかし神の恵みの賜物は、私たちの主、キリスト・イエスにある永遠の生命であるからだ」ヴィルケンス訳
 ここを一読すると、パウロは「かって一いまや」という対比を駆使している。ここで取り上げられているのは「罪の奴隷、汚れと不法の奴隷一死に至る」と「服従の奴隷、義のための奴隷、神のための奴隷一義、永遠の生命に至る」の対比である「奴隷・ドゥーロス」は「僕」よりはるかに強い意味をもつ。誰かに服従するのが奴隷であるが、キリスト者の「かっての姿」は「罪の奴隷で《あった》」という、17節。その奴隷の姿は19節に「あなたがたの肢体を汚れと不法の奴隷として不法の行為に委ねていた」と説明されている。20節の「義に対して自由であった」は、罪の奴隷である存在は「義という主人」には仕えていない、拘束されない、支配されていない、という意味。罪の奴隷である存在は、いまからみると恥ずべきものでしかなかったという。
 そしてこの「罪の奴隷からの解放」(17節)は「あなたがたに伝承された教えの型に心から服従して」実現した、とある。この「教えの型」は原始教会の信仰箇条、使徒的宣教、例えば10:9以下のようなものと解釈されているが(ヴィルケンス)、具体的にはあくまで洗礼に関する伝承、洗礼の信仰告白伝承(その内容は明らかでない)である。注目すべきことに罪からの解放はこの洗礼伝承の告白において(「服従して」)実現した、とパウロが主張した点である。洗礼における神の恵みの業(6:3以下)は、教会の洗礼伝承の受容・告白という「洗礼儀式の執行・教会の業において」継承され実現するのである。
 奴隷の主人の転換は19節で「いまやあなたがたの肢体を《義の奴隷》として聖化に委ねよ」とある。「罪の支配から恵みの支配への転換」である。「罪の奴隷」に対比されるのは本来「神の奴隷」と表現されるべきだが、罪は神への不服従によって起きたことを考えてその対比として、パウロはまず「服従の奴隷」という。すなわち「信仰の服従の奴隷」(ヴィルケンス)である。16節によれば「罪の奴隷」は「死に至る」が「信仰の服従」は恵みのもとでの存在における服従であって、「信仰の服従の奴隷」は「義に至る」。
 「信仰の服従の奴隷」(16節)から「義の奴隷」(19節)へ、そして22節では「神に対する奴隷」とある。「あなたがたはいまや罪から解放されて《神に対する奴隷》とされ、《聖化》に至る結実を得ている」。ここでは「聖化」がポイントである。19節にもすでに「自分の肢体を聖化にゆだねよ」とある。聖化とは、第一にすでに洗礼において始まる。洗礼を受けた者は聖化へと召された、第一テサ4:7。第二に、義認と聖化について第一コリ6:11によれば、洗礼、聖化、義認は並行関係で述べられている、「あなたがたは主キリストの名によって、神の霊によって洗われ、きよめられ、義とされた」。19節で「あなたがたの肢体を聖化にゆだねよ」とあって、聖化が《身体的》服従を意味するという(12:1参照)。義認と聖化との関連では「聖化は義とされたことの日常的な課題である」ケーゼマン。第三に、聖化はキリスト者の生に対する神の具体的な作用のことであり、義の行為をとおしてきよくなることである、ヴィルケンス。聖化は、キリスト者が自らの義認にしたがって自分で提出しなければならないような実践を意味していない。この聖化はあくまでもキリスト者の行動において神がもたらされる作用のこと、この神の作用は《み霊》による(8章)が、ここではまだ述べられていない。「み霊によるきよめ」第二テサ3:13、第一ペテロ1:2「み霊のきよめにあずかる」。
 23節「罪の報いは死である。しかし神の恵みの賜物は私たちの主キリスト・イエスにおける永遠の生命である」。死は、罪がその兵士たちに支払う報い、報酬である。しかしながら永遠の生命は、けして報いではなく、神の恵み、恵みの賜物である。「主キリスト・イエスにおける」は恵みの主体である。「恵みの賜物」とは恵みの具体的な作用を意味している。
 先の聖化もこの永遠の生命も神の行為として私たちにもたらされる。