建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、律法からの解放  ロマ7:1~6

1997-21(1997/5/25)

律法からの解放  ロマ7:1~6

 「兄弟たちよ、それともあなたがたは知らないのか、私は律法を知つている人々に向って語るのだが、律法は人間が生きている間だけ、その人間に力をふるうということを。というのは結婚した女性は夫が生存中だけ夫に法をとおして結びっけられているが、しかし夫が死ぬと、彼女は夫の法から解放され、自由になるからだ。彼女が夫の生存中、他の男性のものとなるならば、姦淫の女と呼ばれる。しかし夫が死ねば彼女はその律法から自由となり、他の男のものとなろうと、彼女は決して姦淫の女ではない。
 私の兄弟たちよ、あなたがたにとっても同じことがいえる、あなたがたもキリストの体をとおして律法に対して死んだのである。それはあなたがたが他のお方、死人の中からよみがえらされたお方、のものになるためであり、それによって私たちが神に対して実を結ぶためである。すなわち、私たちが肉にあった時、私たちの肢体には律法をとおして呼び覚まされた罪の激情が(活発に)働いていた。その結果私たちは死という実を結実させていた。しかしいまや、私たちがかたく囚われていたものに私たちが死ぬことによって、私たちは律法から放免されているのだ。それは私たちがもはや(律法の)文字の古い領域にではなく、み霊の新しい(力の)領域で神に仕えるためである」。
 1節の「律法を知つている人々」は「兄弟たち」すなわちローマの教会の中のトーラー・律法を知つている人々、ユダヤキリスト者を指していようが、トーラー・旧約聖書については礼拝で用いられていたので異邦人キリスト者も知つていたろう。この「ノモス・律法」をローマの法や法一般と解さないほうがよい。パウロによれば「律法は人間が生きている間だけ、その人間に対して力をふるう」。この箇所でパウロは律法と人間との関係を「結婚した女性と他の男性との結合」のポイントとして述べている。2-3節。
 「結婚した女性はその夫が生存中だけ律法をとおして夫と結びつけられているがしかしその夫が死ねば、夫の法から解放され、自由となる」。この夫との法的な関係が彼女にとって「無効とされる」のは夫の死においてである。したがって3節前半「彼女が夫の生存中に他の男と性的な関係をもちその男のものになるならば、彼女は姦淫の女と呼ばれる」しかし夫の死後は彼女は自分を夫に結びつけている律法から自由となり、たとえ他の男に身をゆだねても、もはや姦淫の女とのレッテルははられない、3節後半。
 結婚した女性と結婚の律法との関係を今度はローマ教会員に妥当すると、パウロは主張する、4節以下。
 「あなたがたもキリストの体をとおして律法に対して死んだ」4節前半。「死んだ」は不定過去の受け身形で、死なしめられたという意味。したがってこの死は「キリストの中への洗礼」(6:4)「キリストの死と同じ姿になる」(6:5)「私たちの古き人はキリストと共に十字架につけられた」(6:6)、すなわち洗礼の出来事を暗示している(ヴィルケンス)。「キリストの体をとおして」はキリストがご自身の体を死に渡されたこと、身代わり的なキリストの死の出来事にあずかることである。第一コリ11:24「これ・パンはあなたがたのための私の体である」、聖餐式においてキリスト者は「キリストの体にあずかる」(同10:16)。また洗礼においてもキリスト者はキリストの死(の体)と同じ姿になる(ロマ6:5)ことでこの体にあずかっている。キリスト者は洗礼において罪に対して死んだ(6:10)。
 この「キリストの体」とは「十字架にっけられたキリストの体」のことであり、洗礼と聖餐式において私たちは「この体」にあずかることをとおして「キリストの死のもつ贖いの作用」に身体的具体的にあずかることができる。
 キリスト者における律法に対する死。2~3節において結婚した女性が夫、つまり結婚の律法的結合から解放されるのは夫の死によってであった。キリスト者における律法への死も「キリストの体をとおして律法に対して死んだ」とある。したがってこの律法からのキリスト者の解放は、第一に、キリストが死へとご自身を渡された、棒げられたことによって実現したのである、ヴィルケンス。ガラ3:13。しかしながら第二に、この「キリストの体をとおして」は、十字架のキリストの体ではなく「復活して高くあげられたキリストの体をとおして」を意味している、ケーゼマン。死からの復活は、律法の権限を超えた神の力ある行為の出来事であった。ユダヤ教の律法によるイエスへの、瀆神罪という有罪判決はこれによって廃棄された。「復活して高挙されたおかたをとおして、洗礼という手段をかりて、私たちは罪からと同様に、律法から究極的に解放されているのだ」(ケーゼマン)。
 5節においてパウロキリスト者の以前のありようを「肉にある存在」という、第二コリ10:3、ガラ2:19。その存在は基本的に「欲望の激情」につき動かされ、死という結実を紡ぐものであったという。この存在のありようは、本質的に神が問題となっていないというか、神の御心にさからっていることにある。「肉にある存在」をして欲望に走らせ、神に逆らわせのは、ほかでもない「律法」であったとパウロは断言している。
 6節ではキリスト者の現在について述べられる。「しかしいまや私たちがとらわれていたものに《死に至らしめられたこと》によって」において、「私たちが囚われていたもの」とは、律法が肉における存在に働きかけて罪へと走らせるその作用を言っている。また「死にいたらしめられた」は不定過去の受け身形で、洗礼の出来事を意味しているが、具体的には「律法に対する死」を言っている。「律法に対する死」はここでは「律法からの赦免」と呼ばれている。
 6節後半。律法からキリスト者が解放される、ということの帰結は「私たちはもはや古い文字にではなく、み霊の新しい力で神に仕えているのだ」とある。み霊と文字との対比は、2:29に「文字によらず、み霊による心の割礼」とあった。ここでは第二コリ3:ll)「文字は人を殺し、み霊は人に生命をつくり出す」が考えられている。律法の文字は人を殺す機能をもつ点は5節でも明らかである。「み霊の新しい力で」はロマ6:5「キリストの復活と同じ姿となる」、「死人の中からよみがえられたかた」(7:4)、み霊が生命をつくり出す復活の力の作用をもっことを意味している。パウロは「しかしいまや」すなわちキリスト者の「現在」を洗礼をとおしてこのみ霊の支配領域におかれたという。洗礼自体は、夫の死で律法との結合から解放された、結婚した女性が他の男性のものになれるように、キリスト者が律法(欲望に突き動かされ、神に逆らう)ではなく、律法とは別の存在、死人の中からよみがえらされたお方に属すことを実現する(4節)。この「み霊の新しい力」が律法との結合の終りをもたらすともいえる。キリスト者の現在は、このみ霊の支配する領域で、神に仕えることだ、とパウロは主張している。