ロマ書、ロマ書の構成 ロマ7:7~12
1997-22(1997/6/1)
ローマ人への手紙の構成 ロマ7:7~12
ローマ人への手紙の構成をどう把握するか、は決して入門といったものではなく、この手紙の学習の本質的なものであると考えられる。この手紙の構成は全体的にみて、8つに分ける方法があって、理解しやすい。ケーゼマンの方法である。
1.この手紙の導人部 1:1~17
2.神の義の啓示の必然性
(1)異邦人に対する神の怒りの啓示 1:18~32
(2)ユダヤ人に対する審判
①終末論的審判の規範(尺度) 2:1~11
②律法の所有は特権とはならない :12~16
③ユダヤ教の律法の伝承 :17~24
④割礼は人を義としない :25~29
⑤パウロへの異論 3:1~8
⑥帰結 :9~20
3.信仰義認としての神の義
(1)命題 3:21~26
(2)論争的先鋭化 :27~31
(3)アブラハムの歴史による聖書の証明 4:1~25
①アブラハムは信仰により義とされた :1~8
②割礼以前に義とされたアブラハム :9~12
③アブラハムの原像による信仰に約束は実現した :13~25
4.終末論的自由の現実としての信仰義認
(1)死の力からの自由 5:1~21
①神との平和における逆説的立場 :1~11
②最後のアダムの支配 :12~21
(2)罪の力からの自由 6:1~23
①洗礼をとおして罪に死ぬ :1~11
②服従にいたる律法の終わり :13~23
(3)み霊の力における律法の終り 7:1~8:39
①律法から自由とされる :1~6
a.律法の業 :7~13
b.律法へと隷属した人間の嘆き :14~25
②み霊の自由における人間 8:1~39
a.み霊にある存在としてのキリスト者の生 :1~11
b.子である立場としてのみ霊にある存在 :12~17
c.希望の立場としてのみ霊にある存在 :18~30
d.克服の現実としてのみ霊にある存在 :31~39
5.神の義とイスラエルの問題 9:1~11:36
(1)使徒の嘆き :1~5
(2)義と神の選びの暫定的目標 :6~29
①約束の担い手は誰か :6~13
②神の自由な力 :14~23
③神の選びの暫定的な目標 :24~29
(3)イスラエルの咎と堕落 9:30~10:21
①テーマ 9:30~33
②律法の終り 10:1~4
③近きにある御言葉 :5~13
④イスラエルの咎 :14~21
(4)救済史の秘密 11:1~36
①イスラエルのつまづきは全体的なものでない :1~10
②イスラエルと異邦人キリスト者 :11~24
③イスラエルの救済 :25~32
④讃美 :33~36
6.キリスト者の日常性における神の義
(1)一般的な勧告一さまざまな次元におけるキリスト者の日常生活
12:1~13:14
①この世のただ中での神への奉仕(礼拝) 12:1~2
②カリスマ所有者への指示 :3~8
③カリスマ的な教会共同体 :9~21
④政治権力との関係 13:1~7
⑤勧告のまとめ :8~14
(2)特殊の勧告 共同体における強い者と弱い者 14:1~15:13
①キリスト者の連帯の広さと限界 14:1~12
②教会共同体における神支配のしるし :13~23
③キリストの模範 15:1~6
④キリストの支配のしるしとしての異邦人の受け入れ
:7~13
7.結び 15:14~33
8.付録 16:1~27
ロマ書の各章の「まとめ を書くことは大変な作業であるが 短く要領よくまとめたものには、ルターの書いた「ロマ書への序言」がある。その中でルターはこの書簡を理解するには、パウロの用いた「用語」についての知識が不可欠だと指摘している。
私たちがこれまで読んできて感じたこの手紙の困難さは、パウロの終末論だと思う。すなわちキリストの到来をもって新しい世が到来し、律法による義に代わって、信仰による義を立てられた。キリスト者は洗礼において古い人、律法の支配、罪の支配から解放されて、新しいみ霊の支配下にあるとパウロは述べている。古い人と新しく創造された人との画然とした転換、生まれ換わり、これが一番難しい。他方パウロの洗礼論が、罪からの死からの解放の根拠とされている、これもやっかいである。
さて7~8章の内容のうち7章を概観したい。
ケーゼマンは、ここに、み霊の力における律法の終り(7:1~8:39)というタイトルをつけて、さらに細かく、律法からの解放(7:1~6)、律法の業(7:7~13)、律法に隷属させられた人間の嘆き(7:14~25)と区分している。
7:7~13の律法の業について。パウロはここで恐ろしい事柄を述べている。律法は汝何何せよと要求する。「むさぼるな」と律法が要求しなかったら、自然的な、肉的な人はむさぼりを知らない。すなわち自分の「むさぼりという罪」を知らない、気づかない、7節。テーブルに並べられた食事の前にいる人間が「つまんではだめよ」と声をかけられなければ、その人間は「つまみ食い」をしようなどは考えもしない、「律法なしには罪は死んでいた」9節前半。その禁止命令によって、そうだつまみ食いをしようと思い立つ。「しかし罪は律法をとおして刺激を受けて、すべての欲望を私の内に引き起こした」8節、これはパリサイ人パウロの実体験であったろう。パウロはここで「私」と言っている点は注目すべきだ、9節以下。肉のもとにある人間に対する律法の恐ろしい作用である。ユダヤ教はこの見解を承認しないであろう。戒め、律法の細則ないところでは人はそれなりに生きている、9節中段。「しかし戒めがやって来た時、罪が生き返った」後段。かくしてパウロはいう、自分の中での律法自体の変質をする、すなわち本来生命に導くはずの律法がその本質を変えて、実は死に至らせる、ということがわかったと10節。戒めをとおして攻撃に転じた罪は、私を欺き、戒めをとおして私を殺した、10節。律法は本来あくまでも「霊的なもの」であり続ける、14節。
14~25。人間存在において「霊と肉とが相互に争う姿」をパウロは述べる。律法のもつ恐ろしい作用は、本来霊的な律法が「肉的な」人間、罪のもとにある人間に突き当たると、そこにいわゆる二律背反が起こされる、「私は欲していることをなさないで、むしろ憎んでいることをなしている」16、19節。欲していないことをなすのは「私自身ではなく、私の内に住んでいる罪である」20節。内なる人間によれば、私は神の律法を喜んでいるが、他方では自分の肢体には別の律法があるのを私は認める、22~23前半。その別の律法は自分の理性の法と戦って、私を《罪の法》の中に捕らえている、23後半。
パウロはいう、理性をもっては私は神の律法に仕えているが、しかし同時に、肉をもっては《罪の法》に仕えている、25節。これがパウロの述べる「二律背反」である。
霊と肉との葛藤、闘争についてルターはこう解説している、
「この闘争は、われわれの生きている限り、われわれのうちに続く。…いづれにしてもすべての人間自身が霊と肉両方を兼ね、《完全に霊的となるまで》は自分自身を戦わねばならない」(「ロマ書への序言」、強調部分がポイントとなる)。
こういってしまえば、それで解決、すっきりと解釈されたよつであるが、この発言がパウロの回心以前のものか、以後のものかという問題が厳然として存在する。むろんルターの立場も一つの有力なものであるが。