建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、みじめな人間  ロマ7:14~25

1997-23(1997/6/8)

みじめな人間  ロマ7:14~25

 「律法が霊的であることを私は知つている、しかし私は肉的なものであって、罪のもとに売られている。私が実行していることが、私にはわからないからだ。 自分が欲していないことを私は行ない、むしろ憎んでいることを行なっている。しかしもし私が自分で欲していないことを行なうとすれば、律法が善きものであることを私は律法に対して承認しているのだ。しかしながら私がそのこと(自分の欲していないこと)を実行してしているのは、もはや私ではなく、むしろ私の内に住んでいる罪である。私の内には、すなわち私の肉には善きものが住んでいないことを私は知つているからである。私には善きことを実行しようとする意欲は明らかであるが、実際にはそうしない。自分で欲している善きことをなさず、むしろ自分では欲していない悪を私はなしているからだ。しかしもし私が自分で欲してはいない、まさしくそのことを私がなすならば、それをなしているのは、もはや私ではなく、むしろ私の内に住んでいる罪である。したがって善きことをなそうと欲している私には、悪が私と結びついている法があることを確認できる。内なる人間によれば、私は神の律法を喜んでいるからである。しかし私の肢体には別の法があるのをみとめる。この別の法は、私の《理性の法》と闘争し、そして私の肢体にある《罪の法》の中に私をとりこにしている。
 私はなんとみじめな人間なのだ。誰がこの死の体から私を救い出してくれるのであろうか。《私たちの主、イエス・キリストをとおして、神は感謝すべきかな》。かくして私は私の理性をもって神の律法に仕えているが、しかしながら肉をもって罪の法に仕えているのだ」ケーゼマン訳
 ロマ書7:13以下の「私」が回心前のパリサイ人パウロをさしているか、それとも回心後のキリスト者パウロをさしているかは、古代からずっと論争されてきたという。イレナイオス、オリゲネスらは、これを回心前のパウロと解釈した(松木、注解)。
(1)アウグスティヌス、5世紀
 アウグスティヌスも初めは、ここの「私」を「恵みに出会う以前の、罪人の絶望的状況を述べたものと解釈していた。…この《私》は恵みの作用する領域以前の、その領域の外にいる《すべての人間》を意味している」(ヴィルケンス、注解)。しかし彼は419年のぺラギウス主義者(400年頃、善悪に対する人間の責任能力を強調した。アウスグテイヌスは「霊と文字について」などで彼らに反駁した)との論争をきっかけに、先の解釈を変えて、この「私」を《キリスト者》と解するようになった、ヴィルケンス。ペラギウスは恵みの業は罪の赦しに限定されるとみなし、また洗礼を受けたキリスト者がどのようにして義と愛に歩むかは、キリスト者の自己責任である、さらに《意欲とその行為とのまた理性と欲望との闘争は罪ある存在の典型的な特徴》と考えていた。
 これに対して、アウグスティヌスはこうみた、キリスト者が洗礼において与えられるのは(罪の赦しばかりではなく、アダム以来の)遺伝的な咎の赦しであって、これを恵みの圧倒的な業として体験する。キリスト者が肉体において生きている限り、さまざまな欲望がキリスト者の中に生き続ける。私たちが《死の体》(7:24)から解放されるとすれば、将来的な終末時においてはじめてそれらの欲望からも解放されるだろう。キリスト者にとって洗礼において変えられる事柄は、キリスト者がみ霊をとおして注がれた神への愛においてはじめて、さまざまな《欲望に対抗する力をもち、それでもって欲望との闘いに歩み出す》という点にある。7:24の叫びに対する回答は8:23(「私たち自身も自分の体の贖いを待ち望んでいる」)において出されると彼はいう。ロマ8章は事実7章と対立したものであって、キリスト者の生の領域は、そこでは(8章)、肉にあるのと並んでみ霊にあるといわれる。そこ(み霊のもと)ではキリスト者は、罪の法としての欲望には支配されることはありえない。さらに、アウグスティヌスキリスト者における罪と義との関連を「現実には罪人一希望においては義人」とみた。
(2)ルターの立場
 ルターは「ロマ書講義」(1516)において、先のアウグスティヌスの「後期の」見解を引き継いだ。アウグスティヌスにとっては、肉と霊とはキリスト者における二つの領域であって、身体的な死に至るまで《相互に並存し》、また両者は互いに闘争している。
 これに対してルターにとっては、肉と霊とは《全体的な》人間にとって欠くべからさるもの、両者は人間の一つの人格において結合されている、キリストの受肉においては人間的なものと神的なものとが独特の交わりにおいて結合されているのと同様に。ルターは《人間における肉と霊との闘争を信仰においてますます活発化させる、キリストとの人格的な結合の効果の現われ》とみた。キリストが受肉においてまったくの霊的なものとして私たち人間とまったく同じに、すなわちまったくの肉となられた(ヨハネ1:14)のであるから、自分たちの引き継いできたアダム的本性である私たちは、キリストを信じる者として(肉的、アダム的本性のもとにありつつ)《同時にまったく霊的になることが可能であり》また自分自身と距離をもち《肉としての自分と戰っことができる》。
 7:25をルターはこう理解する
 「見よ、一人の同じ人間が神の律法と罪の法とに《同時に》仕えている。《彼は義なる者であると同時に罪を犯す》(強調、ルター)。彼は私たちの心が神の律法に仕えるとは言わない、まして私の肉が罪の律法に服従しているとは言わない。むしろ私は自分の人間存在全体が、同じ人格が《二重の服従》をしている、と言う。
 (パウロ自身は25節でいう「こうして私は私の理性をもってしては神の律法に仕えているが、しかしながら肉をもっては罪の法に仕えているのだ」。この箇所についてルターは「二重の服従」と解釈したのだ)。
 (ルターは続ける)したがって彼・その人間は神の律法に従っていることに感謝しており他方罪の法に仕えていることに憐れみを請うている。《肉的な人間について、いったい誰がはたして彼は神の律法に仕えていると主張することができよう》。聖徒たちは、彼らは《義なる者でありつつ、同時に罪人である》、彼らが義なる者であるのは、彼らがキリストを信じ、そのお方の義を彼らがまとい、また義なる者とみなされたからである。彼らが罪人であるのは、彼らが律法を成就せず、欲望なくしては生きることができないでむしろ医師の治療のもとにある患者のようなものだからだ。すなわち、彼らは実際患者であり、《希望において健康な者》、より正確には、健康にされた者、《すなわち健康になりたいと思っている者》、彼らには最も害を与えているのは自分が健康だとの僭越な主張をすることである。そのことで彼らの病状がますます患化してしまうからだ」(ロマ書講義)。
 ルターがこの箇所の解釈でキリスト者を「義人にして同時に罪人」と述べたことはよく知られている。このスローガンを聞いて現代のキリスト者も確かにほっとする。
 さらにルターがキリスト者を「医師の治療のもとにある患者」とみなした点も有名である。眼目は先の引用の「希望において健康な者(患者)、健康になりたいと思っている者(患者)」の部分である。キリスト者を「医師との関わりにおける患者」にたとえることで、彼は医師に対する患者側の思い、「健康になりたいと思っている」点、すなわち「信仰」を強調した。信仰者は自分の罪に直面して(ここまでは確かに罪人であるが)神の憐れみに目を向けて、神による罪の赦しの言葉をとおして、つねに義なる者と「される」。したがってアウグスティヌスの「現実には罪人一希望においては義人」になぞらえていえば、ルターの立場は「現実には罪人一信仰においては義人」と表現できる。