建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、みじめな人間 3  ロマ7:24~25前半

1997-25(1997/6/22)

みじめな人間 3  ロマ7:24~25前半
 (1)7:24~25前半をどのよつに読んでいくかは、大きな問題である。普通に読んでいくと、ここは文の流れがうまくつながらないからだ。特に《24節の嘆きの叫び》 に対する《回答》をパウロ自身どう考えていたのか、それは25節前半なのかどうか、という問題である。ミヘルの注解は、7:24-25を次のように並べ変えて読む。
 「(25後半)したがって私は、悟性をもっては神の律法に仕えているが、しかし肉をもってしては罪の法に仕えている。(24)私は何と不幸な人間なのだろう。誰がこの死の体から私を救い出してくれるのだろうか。(25前半)私たちの主イエス・キリストをとおして神に感謝せよ。(8:2)なぜならみ霊をもって与えられた、キリスト・イエスにある生命の法は、あなたを罪と死の法から解放してしまったからだ」。
ミヘルはいう、24節の「この死の体」とは、人間がこの死の体と結びつけられた存在であること、死の体とは死に従属させられた体、すなわち地上におけるすべての存在を指している。24節の嘆きの叫びに対する回答は、一つには25節前半の「神への感謝」をもって、もう一つには8:18以下の「体の、将来的救い」つまり「私たちは体の贖いを待ち望んでいる」(8:24)である。しかし神への感謝だけでは十分ではないので、パウロは8章で、「罪の法」(7:25)に対立する「生命のみ霊の法」(8:2)を展開した。それゆえ、7:25の前半は8:2につなげられると。
 さて7章14節以下を回心以前のパウロについて述べたものとの解釈で(ブルトマンなど)、矛盾をきたすのは、やはり24節の「嘆きの叫び」に対して、25節での「神への感謝」の言葉の中に《突如として「主イエス・キリスト」》という言葉が登場している点である。もし24節における「みじめな人間」=「私」が回心以前のパウロとすれば、その解釈はここの「キリスト」と矛盾してくるから。とにかく24節の嘆きの叫びと25節前半との間にある種の「飛躍」があるようにみえる。この点では、先のミヘルの読み変えは一つのすぐれた解釈である。
 (2)日本におけるすぐれた解釈である、内村鑑三の「ロマ書の研究」(1926)がここをどう解釈しているかをみたい。まずこの箇所24~25前半の翻訳、「ああわれ、悩める人なるかな。この死の体よりわれを救わん者はだれぞや。《これ、われらの主イエス・キリストなるがゆえに》、神に感謝すべきかな」。この翻訳の特徴は「私たちの主イエスキリストをとおして、神に感謝せよ」(ヴィルケンス訳)に対して、「これ、われらの主イエス・キリストなるがゆえに。神は感謝すべきかな」と前半と後半を分離している点である。次に解釈、
 「人はキリストによりて、明らかに二重人格(25節後半)の苦悶より救われる幸福に入るのである。…信仰に入りし者といえども、上を仰がずして自己を見つめる時は、信仰よりも良心と道徳とが多くの問題となる時は、また旧のあわれむべき二重人格の苦悶におちるのである。ゆえに信仰生活は、この幸福とこの苦悶との交錯であるといいうる。……彼・パウロはここに決して単なる自己の苦悶を訴えたのではない。彼は現在この苦悶の中にあることを述べたけれども、それは決してただの失望懊悩の声ではない。彼は明らかにここでキリストによる救いを説いているのである。ゆえにこれは敗戦の哀号ではなくして勝利の凱歌である。うめきつつ、苦しみつつ、しかも高らかに発するところの凱歌である…深く鋭く強く人の肺腑を突く。けれども絶望の哀声ではない。ゆえに決して人をして失望せしめない。強く強く人を慰める。彼はうめきつつ勝関(かちどき)をあげて走った人である」。
 ここに見られるように、内村は「嘆きの叫び」と 「神への感謝」の間にある種の断絶をみないで、両者を同時的に把握して「苦しみつつ、凱歌をあげる」と言っている。内村がロマ書7章における「私」を「二重人格であるキリスト者」と規定する点では、アウグスティヌス、ルターの立場に立っている。他方、内村は「嘆きの叫び」に関して25節が十分回答を出している、8章との関連づけを不要としている。内村は「主イエスキリストを《とおして》」を「感謝」につなげずに「死のからだからの救出」につなげる。これは読み方として少し無理があるが、意味的には十分可能である。というのはパウロが「神への感謝」において想定しているのは「キリストの贖いの死」(3:25)であったから。
 (3)アルトハウスはこう解釈する、「その絶望の叫びは、何らの媒介もなく、救済者への感謝によって克服される。深い嘆息をもってパウロイエス・キリストをとおして彼を救いたもうた(完了形)神に感謝している。この叫びは(すでに)聞きとどけられ、問いは(すでに)回答を見つけ出していたのだ。回答が出されているからこそ、この問いは発っせられうるのであり、またきわめて深い苦悩を切り抜けてきたところでのみこの問いは起きるものであろう」(注解)。アルトハウスのこの解釈、パウロは「深い苦悩を切り抜けたところで」この嘆きの叫びを発している、はすぐれたものだと思う。
 内村もアルトハウスも25節前半は「直接」24節の嘆きの叫びに対する回答とみるがどうなのであろう。アルトハウスは、ミヘルや内村のような読み方はしないが、内容的には同じで、神への感謝自体が、嘆きの叫びを止揚・克服しているとみた。
 とにかく7:14以下における「私」を《一貫して回心以前の罪人》と解釈することはこの24節の「嘆きの叫び」から25節の「神への感謝」への「大きな断絶、飛躍」の点からみるとできないようだ。
 (4)7章の構成においては、すでに6節で「私たち・キリスト者の律法からの解放と新しいみ霊の領域で(神に)仕える」ことが実現したと述べられている。ポイントはこの叫びを6節とつなげるか、23節までの線とつなげるかかであると、ヴィルケンスはみる(注解)。23節までの線とつなげると、あの嘆きの叫びは、単なる絶望を表すもの、そして「死の体から救ってくれる存在」は「誰もいない」ことになる。しかしながら、パウロがこの叫びの回答を25節前半の「神への感謝」で出しているとすれば、この「神への感謝」は6節とつながることになる。ーーほかでもなく神ご自身が律法のもとで救いようもない者たちを「この死の体から」救い出してくださる。神はこの救出をキリストの贖いと復活によってなしとげられた。それゆえ神に対する感謝は「私たちの主イエス・キリストをとおして」を媒介としている(ヴィルケンス)。この「とおして」はやはり「救出」(内村)とではなく「感謝」にかけて解釈すべきだ、とヴィルケンスはみる。
 他方では「私の」意欲と行為との突衝、「私の」理性の法と私の肢体のおける罪の法との間の抗争、自分の全く見通しなき救いなき状況、あの嘆きは、自分の罪のはかりがたい深淵において神の恵みのはかりがたい深淵に接した体験、苦悩の彼方でそれを突き抜けたことろで神のはかりがたい恵みに出会った体験、罪からの解放を実現させるキリストの贖いの死の出来事にふれた体験を示している。かくてヴィルケンスは「ここでの《私》を《洗礼をすでに受けた者が回心以前の自分の状態を振り返ってみた場合にのみ明らかになるかっての私の姿である》」とみる。これはアルトハウスの立場とほぼ同じものである。
 (5)さて、ロマ書7章の「私」に関して、一方では回心前の罪人の状況を述べたもの他方では霊と肉との葛藤の中にあるキリスト者の存在を、さらにみ霊の支配から見なおされた以前の自分の姿とさまざなな解釈が繰り返し起きてきたのか。その理由は、7:14以下で問題とされた《「私の姿」がキリスト者においても繰り返し体験される》ためであると思われる。《罪から解放されたキリスト者》は《キリストの御心》(律法の言い換え)と矛盾して、現実に罪、すなわち《神の愛に対する違反行為》(律法の要求への違反)を行なう。《そのような場合》キリスト者も7:24と同じように、救済者に向って嘆きの叫びをあげる。ただキリスト者においては、どれほど嘆きの叫びが絶望的な響きをもったにしても、その叫びはキリストの贖いの死を自分たちすべての罪の克服と信じる信仰を打ち消すことがない。
 回心以前の人間は、自分の限りない罪において(罪意識によって)神の恵みの限りなさに出会うが、他方回心後の人間は、深き恵みにおいて自分の罪を見い出すようになる、2:4。その罪は恵みのもとで見られので、「赦された罪」の体験がなされる。