建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、罪の肉への断罪  ロマ8:1~4

1997-26(1997/6/29)

罪の肉への断罪  ロマ8:1~4

 「したがってキリスト・イエスにある者たちには、もはや罪の宣告を受けることがない。というのはみ霊をもって与えられたキリスト・イエスにおける生命の法は、あなたを罪と死との法から解放してしまったからである。律法には不可能なことが、この律法は肉のゆえに弱いことが証明されたのだが、実現されていた。ーーすなわち神は、ご自身の御子に《罪の肉と同じ姿》をとらせ、彼を贖いの供え物として派遣された。そのようにして肉における罪を罪あるものと宣告なされたからである。それをもって律法の義の要求が私たちのもとで成就されて、私たちが肉にではなく、み霊にふさわしく歩むようになるためである」ケーゼマン訳。
 この箇所全体は少し難しい。テーマは「罪と死(の法)からの解放」であるが、ポイントはいくつかあるようだ。3節後半から入りたい。
 「肉における罪を罪あるものと宣告する」について。「肉・サルクス」はここでの大きなポイント。パウロにおいて「肉・サルクス」は多義的であるが、人間が「肉的なるものである」(7:14)という場合、人間が肉体的な体に結びつけられた存在という意味で、弱さ、はかなさの表現ともなる(8:2)。この場合「肉の反対語」は神や神の「み霊」である(ロマ8:4、5、8、9)。サルクス・肉は「目に見えるもの」の分野に属し(第二コリ4:18)、肉は「死ぬべき肉」ともいわれ(第二コリ4:11)、「肉的存在である・すべての人間は罪のもとに売り渡されている」(7:14)、「人間の肉には善きものが宿っていない」(ロマ7:18)「サルクスによって存在する者」(8:5)など。
 「罪の肉と同じ姿で」について。ところで神が派遣された「御子」は、「ロゴスは肉となった」(ヨハネ1:14)とは異なって、ここでは「罪の肉と同じ姿で」とより厳密にパウロは表現する。もしこれが「罪の肉の姿で」(松木訳、協会訳の「罪の肉の様で」はあいまいでよくない)の意味だとすると、「御子」は人間一般と完全に同質であって異質性を失い限りなく罪を犯す可能性の中に置かれることとなり、御子の無罪性(第一ペテロ2:22、ヘブル4:15)を欠落する結果となる。ここの「同じ姿・ホモイオーマ」は、すでにキリスト者の洗礼において、受洗者が「キリストの死と同じ姿、キリストの復活と同じ姿となる」(6:5)に出てきている。「同じ姿・ホモイオーマ」は相似しているが決定的な相違点をもつ、という意味である点はすでにふれた。ここでも同じで、御子・キリストは神によって「罪の肉の姿をとって」派遣されたのでは《ない》。むしろ「罪の肉のホモイオーマで・同じ姿で」派遣された、における「同じ姿で・ホモイオーマ」はあくまで「罪の肉である人間存在」との《同質性ではなく、相似性・類似性のみ》を、言い換えると《非同質性のもとでの同質性》(ヴィルケンス)表現している。パウロはキリストが肉となられたことを(ヨハネ1:14)「罪人となられた」と誤解されるのを排除しようとして、この用語・ホモイオーマを用いている。
 このポイントはしたがって最高法院によるイエスへの有罪判決(イザヤ53:12「彼は咎ある者と共に数えられた」、マタイ26:65「彼は神を汚した」)とは区別される。「このホモイオーマは、なるほどイエスが地上的に死なねばならなかったこと、しかし罪に打ち負かされはしなかったことのみを言っている」(ケーゼマン)、「神は御子を罪の肉において派遣されたが、それは御子のもとでは決して罪の肉ではなかった」(シユリール)。
 「罪のために」について。御子の派遣の目的は、原文では「罪のために・for sin」で松木訳、協会訳は「罪のために」、ケーゼマン訳は「贖いの供え物として」、ヴィルケンス訳は「罪の贖いとして」。したがってこの「罪のために」は、第一ペテロ3:18「キリストは義なる方として不義なる人々のために、ひとたび罪のために死なれた」、第一ヨハネ2:2「彼は私たちの罪のための贖いである」、ロマ5:25「キリストの贖いの死」と強く関連をする。パウロはキリストの受肉とキリストの贖いの死とを一つのものとして関連づけるのだ。
 すなわち神がご自身の御子を罪の肉と同じ姿で派遣されたのは(3節後半)、すべての人間の、死をはらむ罪の現実を彼らの代理として、この罪のために神がご自身で活動される、つまり罪人をこの《罪の肉》の現実から解放するためであった。
 3節後半「肉における罪に罪ありと宣告された」(「バウア一訳「肉における罪に対して(罪の)宣告をする」)。ここでの「罪ありと宣告する・カタクリノ一」は、いわゆる有罪判決を下すという意味ともう一つ処刑するという意味の双方を指している。うまく翻訳できない用語である。松木訳「肉において罪をさだめられた」では罰に意味合いが欠落する。ドイツ語訳「verdammen」は神が永劫の罰を下す、地獄に落とすとい意味。通常の法的な宣告という意味よりはるかに強い内容で、ここにはキリストの十字架の死、それも「呪いの死」に意味合いがある(ガラ3:13)。したがって協会訳「罰せられた」も不十分である。
 トーラーが罪と死の律法として(8:2)、罪人たちに出す罪ありとの宣告を、神は、罪人らに代わって、ご自身の御子に対して下された、罪がその支配力をもつていた《肉》の中においてである。罪人は罪の報い、死を刈り取る運命にあるが、しかしキリストが神の御子としてすべての罪人に代わって死なれたので、その結果彼らは罪の支配から解放された(2節)。《キリストは罪から死の働きを取り去り、こうして罪の支配領域、肉での律法による「罪ありとの宣告」は放棄された》、しかし今や律法の呪い(ガラ3:13)が多くのに代わって、一人のお方、キリストに下された。重大なのは、神ご自身が罪の肉において派遣されたのは神の御子であり、そして《この御子のみが、その支配領域、肉における罪の力を奪い取る力を持っておられる点》である。しかし神の御子が《罪人らの運命》をご自身に引き受けなさったことをとおしてのみ、この罪に対する勝利は獲得できたのだ、ヴィルケンス注解。
 罪自体を無力なものとするのは、キリストの十字架において神がなされた、自已卑賤の業であったというのがパウロの立場である。第二コリント5:21ではこうある「神は私たちの罪のために、罪を知らないお方を罪とされた。それは私たちが彼にあって神の義となるためである」。8:3の「肉における罪」にする神の宣告「罪ありとの宣告」、すなわち罪人になりかわってキリストに十字架の死をとげさせられた神の業というものを、ここ以上に厳しく述べた箇所もめずらしい。