建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、み霊の働き2  ロマ8:12~15

1997-30(1997/7/27)

み霊の働き 2  ロマ8:12~15
 
 「だとすれば、兄弟たちよ、私たちは義務を負っているが、肉に従って生きるために、肉に対する義務を負っているのではない。というのは、もしあなたがたが肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬしかないからである。しかしあなたがたがみ霊をとおして体のもくろみを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。
 すなわちみ霊をとおして導かれている者はすべて、神の子らである。しかもあなたがたは、再び恐れにみまわれる奴隷の霊を受けたのではなく、むしろ子となる身分の霊を受けたのだ。そしてこの霊をとおして私たちは『アバ(父よ)』と呼びかけるのである」ヴィルケンス訳。
 (1)12、13節前半において、パウロは、「肉に従って生きる生活」への警告を発している。その人生の帰結は「死ぬしかない」と(13節前半)。「兄弟たちよ」との呼びかけは、この警告の緊迫性を明らかにしている。「肉に従って生きる」ことの帰結が「死」である点については、「肉の思いは死である。肉の思いは神への敵対であるからだ」(6~7節)にもある。
 これに対して13節では「死の帰結」ではなく「生きる」という帰結について後半で「み霊をとおして体のもくろみを殺すなら、生きる」とある。「体のもくろみ」。12:4の「しかし肢体はすべて同じ《機能》を果たしていない」では、この用語「機能・プラケイス」は中立的な意味であるが、ここでは「もくろみ、陰謀」など惡い意味で用いられている。「体のもくろみ」は「肉の欲望」(13:14)「肉の業」(ガラ5:9)に対応したものでリーゼマン訳では「体の業を殺す」とある。すなわち創造者から孤立し切り離されて自分の意志でもってキリスト者がふるまうこと。
 「み霊をとおして体のもくろみを殺す」というポイント。パウロによれば、この体のもろみ・業を殺す働きをするのが「み霊自身である」。これはみ霊の働きのうちで最高のものであろう。このみ霊は「キリスト者らの中に住んでいるみ霊である」(10、11節)。キリスト者は洗礼においてキリストの死と同じ姿になることで「死の体が滅びる」ことを体験するが(6:6)、「み霊をとおして体の業を殺す」には第一に、この洗礼儀式が含まれる。第二に、ここではキリスト者らの間に住むみ霊自体がキリスト者らの体の業、すなわち肉のもとにある存在様式に攻撃を加え、その存在の死滅を図る。その場合のみ霊は聖書の言葉自体の働きかけである。御言葉の働きかけをもってキリスト者は体の業を殺すのである。第三にみ霊による体の業の死滅は、祈りのテーマである。15節。
 み霊の働きを受けている者たちは「地上的な人間」とは異質である、またみ霊が創り出す作用は、地上的な人間の動きとは異質のものである。パウロには「もはや私が生きているのではなく、むしろキリストが私の内に生きておられる」(ガラ2:20)が成立していたが、パウロの内に「住んでいるキリスト」は、パウロ自身とは区別される「別の力」「私たちの外にある(エクストラ・ノス)恵み」であった。本来的な自分に思いを向けるというのでなく《そのキリストが私たちをとおして働かれるようにしむけること》(ヴィルケンス)、これこそが「み霊に導かれる者の義務」だとパウロは考えている。したがってアウグステイヌスやルターにおける以上に、パウロキリスト者たち、教会共同体において《キリスト者の存在の外にあるみ霊の働きがすでにここで実現している点》、すでにキリスト者において《体のもくろみ・業を殺すところのみ霊の働きの作用が実現した点》を強く強く主張している、といえる。この点の証拠を14節以下で述べている。
 (2)14節以下。ここの「神のみ霊に《導かれる《者たち」では「突き動かされる」との意味もあり、原始教会において知られていた「み霊による恍惚的な体験」を指していた。しかしここではむしろキリスト者の行動を規定するみ霊の力のこと。したがって「み霊に導かれる」はロマ8:4の「み霊に従って歩む」、ガラ5:10「み霊によって歩みなさい」と同じ意味。
 「神の子らである」において「神の子という単数形」はイエスにしか用いられてない。キリスト者の意味では常に「複数形=神の子ら」である。
 14節において「女奴隷の霊」と「子の身分を授ける霊」の対比が登場する。「奴隷・隷属」はここでは「律法のもとにある」(参照ガラ4:24)を意味している(ヴィルケンス)。この隷属はいまだに、神の怒りに対する罪人の「恐れ」に結びついている。この「恐れにかられる」は「いまだ救われない被造物のしるし」(ケーゼマン)、「不安」(シュリーア、何かに対する恐れと区別されるところのもの、ハイデガーが説いた人間の現存在の状況として「不安」)。この「恐れ」は神の子らの存在の特質、喜びとくっきりとした対比をなしている。
 「どのようにして神の子らとなるか」についてパウロは、私たちが洗礼において「子となる身分を授けるみ霊」を「授けられた」という。動詞の過去形「授けられた」は「洗礼儀式」を意味している。「子となる身分を授ける・フィオテイシア」は「養子とする」ことによる子の身分、権利のことで、法的意味をもつ。
 イスラエルヤハウェの愛する子であった(ホセヤ11:1)。詩篇の「王の詩篇」においては(2、110など)、「主は私に言われる『おまえは私の子だ。今日私はおまえを生んだ』」(詩2:7)とある。ここで「ヤハウェの子とされる」のは王のことであり、この王への即位が「ヤハウエの《生む》という」表現であり現実には養子とされること。のちにこの王の即位式はメシアの即位に当てはめられた。マタイ3:16など。引用。すなわちメシアへの即位は神による「選びと祝福」の賜物であり、血縁でなく宗教的法的にその身分が授けられること、その選びと地位を約束する特別の「神のみ霊」が与えられること。ここでも「神の子ら」とされる出来事は、洗礼儀式という見える形ばかりでなく「子の身分を授ける《み霊》の出来事」とされている。そして「このみ霊をとおして私たちは『アバ』と呼びかける」とパウロはいう。
 「アバ」はアラム語の父への親しみをこめた呼びかけ、「父よ」と翻訳されている。ゲッセマネでイエスが祈った時の神への呼びかけも「アバ」であった。マタイ26:30以下。イエスの宣教自体も「天の父の子ら」となることに規定されていたといえる。他方で「アバ」は原始教会において引き継がれた「アラム語の表現群」に含まれている、すなわち「アーメン」「マラナタ・来たりませ」(第一コリ16:22)「ハレルヤ」(黙示録19章)。このアバの呼びかけは「礼拝的な歓呼の叫び」で、パウロはここで「霊感的霊に動かされる歓呼の祈りの呼びかけ」を考えている(ヴィルケンス)。神に敵対するこの世において、み霊は「アバ」との呼びかけをとおして、キリスト者に神との平和に至る人り口、父と子らの関係に入る道を開いたのだ。
 キリスト者らの内に住んでおられるみ霊の働きのある種の「頂点」が、キリスト者に訪れる祈りの呼びかけ、アバである。26節「み霊は私たちの弱さを受け入れてくださる。何を祈るべきか、どのように祈らなけれはならないか、私たちは知らないからである。しかしみ霊は言葉に表わせないうめきをもって私たちのために執り成してくださる」。
 み霊はキリスト者に働きかけて、神に対する祈りの呼びかけを与えてくださる。それは個々のキリスト者に限らず、共同体的な祈りの呼びかけ、歓呼、喜びの響きをもつ「言葉」である。み霊がキリスト者に祈りを与えたもうのだ。み霊は言葉、祈りの言葉となるのだ。あくまでもキリスト者の側からではなく、神のほうからである。
 み霊の働きは、キリスト者集団の洗礼、御言葉、祈りとして働き続けられる。