建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、神の愛2  ロマ8:33~39

1997-37(1997/9/14)

神の愛2  ロマ8:33~39

 「神が選んでくださった者に対して、誰が告発するのであろうか。それは神か。(否)神は義と宣告されたのだ。誰が断罪するのであろうか。それはキリスト・イエスか。(否)キリストは死にたもうて、というよりよみがえりたもたお方であって、神の右に座し、私たちのためにとりなしていてくださる。誰がキリストの愛から私たちを切り離すことができるのであろうか。それは患難か。不安か。迫害か。飢餓か。裸か。危険か。剣か。
 (聖書に)こう書いてあるように、『私たちは、あなたのゆえにひねもす死に渡され、屠殺される羊のようにみなされている』(詩44:22)。
 しかしそれらすべてのことにもかかわらず、私たちを愛してくだったお方をとおして、私たちは圧倒的な勝利をする。というのは私たちは確信しているからである。ーー死も生も、み使いも権力も、現在のことも将来のことも、高所の力も、深所の力も、そのほかのいかなる被造物も、私たちの主キリスト・イエスにおける神の愛から私たちを切り離すことはできないということを」。
 パウロの修辞疑問は続く。この疑問の回答ははいつも、否である。ここでの文脈は、イザヤ53章における苦難の僕、あるいはキリストの受難、捕縛、告発、死刑判決の用語が多数見出される。「告発、断罪」、「ひねもす死に渡される、屠殺される羊」「患難、不安、迫害…」。しかしテーマとなっているのは、苦難の僕でもキリストご自身の苦難でもない。むしろ使徒たちを含めた《キリスト者の苦難》である。
 パウロが引用する36節は、詩篇44:22の引用で、イスラエルが「ヤハウエのために」大きな苦難と追害にあったことをうたったもの、そこではヤハウェ「あなたのゆえにひねもす死に渡される」すなわち、神のため、律法を守ろうとするゆえに殉教する事態があってこのように殉教する者、殺される者は、神に愛されている証拠とみなされていた(ダニエル書、マカベア書など)。パウロはこのようなユダヤ教の伝統を引き継いで、「キリストと共に苦しむ」(8:17)、あるいは殉教(8:36)を神の愛と結合してある種の「殉教の神学」を展開した。パウロの殉教の神学の特徴は、「私たちはひねもすあなたゆえに死に渡されている」、すなわちキリスト者の死に方の中に「神のために死ぬ」という形を導入した点である。人は「罪の報いとして死ぬ」(6:23)のでなく、神のゆえに死ぬ、この死は神を愛する証明であるばかりではなく、神に愛された証拠である、35、37節。
 愛という言葉は、注目すべきことに、「キリストの愛」35節、「キリスト:イエスにおける神の愛」39節、「私たちを愛してくだったお方」37節と三回でてくる。特にこの「私たちを愛してくださったお方」37節は不定過去形(ドイツ語訳は完了形)になっていて《過去におけるキリストの十字架の出来事》において指められたキリストの贖いの死を暗示している。ガラ2:20。この愛が決して過去のものではなく、現在のものであることはむろんである。5:5。そうしてキリスト者らに訪れるのは、「キリストのゆに」ひねもす、常に、死である。それはあたかも屠場にひかれる羊のようにみなされた(詩44、イザヤ53)。言い換えると、ここで取り上げられているのは、順境の中にあるキリスト者らではなく、苦しみと死に直面させられたキリスト者である。眼目はキリスト者の遭遇している苦しみなのである。
 35節、しかしにもかかわらず、この苦しみは、このすべてに耐える者を、私たちのために苦難と死の十字架をご自身に引き受けたお方の愛から切り離なさない。キリスト者の受ける苦しみが、キリストの苦しみと結合するばかりでなく、キリストのその苦しみ、十字架において示された愛と結合するのだ。キリストと共に苦しむことは、キリストと共に栄化されると語られたが、17節、ここでは「勝利」が語られる。
 「私たちを愛してくださったお方をとおして私たちは圧倒的な勝利をする」37節。
 「それゆえキリスト者は、苦しみの直中ですでに苦しみに対する勝利を得ている、十字架につけられたお方が私たちに対する愛において獲得した勝利をである」ヴィルケンス。
 この箇所、35節後半、38、39節において、あらゆるものがキリストの愛、キリストにおける神の愛から、キリスト者を引き離すことができない、とのパウロの確信は、実に格調が高い、真に確信に満ちた言葉である。これは「神の愛の絶対性」を説いたものではない。この箇所についてのカール・バルトの「イエス・キリストにおける神の愛は、人間に対する神の愛と神に対する人間の愛との合一である」との言葉は含蓄深い。パウロが述べているのは、神の愛一般、キリストのやさしい愛ではない。ここではキリストの愛、神の愛はあくまで十字架につけられたキリストの愛であり、「御子を惜しまないで死に渡された」神の愛である。苦難と死がポイントである。それゆえキリストとキリスト者を結びつける媒体は、この苦難と死である。神は苦しむ者の神である。神の愛が圧倒的にキリスト者を包み込み、その罪を赦すのみではない。キリスト者の側の「神への愛」「キリストゆえの苦難と殉教の死」が問題となっているところで、キリストの愛はキリスト者らの中に浸透し、認識され「キリストのための死」の行動をも引き起こしている。キリストの愛とキリスト者の行動は苦しみを介し苦しみを媒介としている。キリスト者の《キリストへの愛》《神への愛》もまたいかなるものも、その愛を沈黙させ、瓦解させることはできない。この点に着目したバルトの解釈は卓見である。
 苦難も死も、あらゆるものが神の愛からキリスト者を切り離すことができない。そればかりでなく、キリスト者がどのような目に遭遇しようと、その苦しみも死の運命も、キリストへの愛からキリスト者を引き離すことはできない。