建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、神の選び1 神の選びと棄却  ロマ9:1~2

1997-38(1997/9/21)

神の選びと棄却 1  ロマ9:1~2

 「私はキリストにおいて真理を言う、偽りを言わない。私の良心が聖霊において私に向って証していることがあるからだ。私の心には大いなる悲しみ、絶えざる痛みがあるということをである。わが兄弟たち、肉による同胞のためなら、私自身、呪われ、キリストから捨て去られてもと、心から祈った。しかも彼らはイスラエル人である。(神の)子らとされる権利、栄光、契約の締結、律法の授与、礼拝、(神の)約束は彼らのものである。父祖たちは彼らのものであって、肉の尺度によれば、キリストも彼らからお出になった。すべてのもの上にいます神は、永遠にほむべきかな。
 しかし神の言葉は決して廃れたのではない。すべのイスラエルがすなわちイスラエルなのではない。彼らがアブラハムの子孫だからといって、彼らすべてが(神の)子らであるわけではない。むしろ『イサクから出る者のみが、あなたの子孫として召されるであろう』(70人訳、創世21・12)。それはこういう意味である、肉の子らが神の子らではなく、むしろ(神の)約束の子らのみが《子孫》として受け入れられる、と。(神の)約東はこう言っている、『その時私は来るであろう。そしてサラは一人の男子を得るであろう』(創世18・14)。しかしこれはサラだけのことではない。リベカにも妥当する。リベカは一人の男、私たちの父祖イサクによって身ごもった。(二人の子ヤコブとエソウが)いまだ生まれもせず、いまだ善も悪もなさなかった時に、《神の選びのご計画》は存続し続けたからだ。それは業に基づいてではなく、召すお方に基づいて(ことが成就するため)である。リベカにはこう予告された、『兄は弟に仕えるであろう』(25:23)
 『私はヤコブを愛して、エソウを憎んだ』(マラキ1:3)と書いてあるように。では私たちは何と言おうか 神には何か不義があるのだろうか。決してそうではない。神はモーゼに向って言われた、『私はいつも憐れみを示している者に、私は憐れみを示すであろう。そして私がいつも慈悲深くしている者に、慈悲深くしよう』(出エジ33:19)。かくてそれはその者の意志やその者が走ることにではなく、憐れみたもう神によるのである。聖書はパロに向って言っている、『私があなたを登場させたのは、あなたによって私の力を示すためであり、それによってこの地全体にわが名を告げ知らせるためである』(出エジ9:16)。かくて神は欲する者に憐れみを示し、また欲する者を頑なになさるのである。
 こうなるとあなたは私にこう言うであろう。『では神はなにゆえ私をなおも非難するのか。いったい誰が神の御心に逆らうことなどできようか』と。人よ、神に抗弁するあなたはいったい何者なのか。いったい被造物がその創造者に向って、言えるであろうか、《あなたはなにゆえ私をこのように創られたのか》と。あるいは、陶器師は一つの同じ粘土の塊から一つを称賛される器を造り、他をつまらないそれに造る、自由な力を持っていないのであろか。
 しかしながら、もし神がその怒りを示そう、その力を告げようと意図して、滅びに至らんとする《怒りの器》に大いなる寛容をもって耐え、他方、栄光に至るよう神が備えられていた《憐れみの器》に、その栄光の豊かさを告げようとなされたとすれば、どうであろう。神はこの憐れみの器を、私たち、すなわちユダヤ人からばかりでなく、異邦人からも召されたのたのである」ヴィルケンス訳。
 9~10章でよく知られた「ユダヤ人問題」をパウロは展開している。ユダヤ人問題とは、簡単にいえば、神に選ばれた民であるはずのイスラエルユダヤ人は神の救いからもれたのか、ユダヤ人はキリストを拒絶し、かつ使徒たちの福音をも受け入れない。他方新たに起きたキリスト教会の側は、自分たちこそ「真のイスラエルである」との認識をもっている。では従来の「神の民、イスラエル」に対する神の祝福、選びはどうなったのか、神はイスラエルユダヤ人を見捨てられたのか(11:1)、これがいわゆるユダヤ人問題である。
 1~5節。パウロは自分の心に「大いなる悲しみと絶えざる痛みがある」と語っているが(2節)、それは「異邦人が信仰に基づく義を得た。しかし義の律法に殺到したイスラエルはその義に到達しなかった」(9:31)ための悲しみ、痛みである。
 パウロイスラエルユダヤ人の「特権」を受け入れる。神の子らとの選び、モーセの契約、律法の授与、神の約束…。しかしながら、パウロは、ユダヤ教の民族的・宗教的一体性を破壊する、「すべてのイスラエルがすなわちイスラエル(神の選民)なのではなくアブラハムの子孫だからといって、そのすべてが神の子らなのではない」(6、7節)。ここでパウロが採用するのは「神の選び」という考えである。アブラハムの子において、イシマエルは見捨てられ、イサクのみが選ばれる。「肉の子らが神の子らであるのではなく、むしろ《約束》の子らのみが《子孫》として承認される」(8節)。ヤコブの時点ではさらにこの点が先鋭化される。ヤコブエサウがいまだ生まれる以前に、神がエサウを見捨てヤコブをお選びになることをすでに決定されていた(11節)。人間の目から見れば、エサウヤコブ(双子であるが、エサウが兄)とどちらが卓越しているか、一概にいえない。すなわちその人間性やその者の行為には依存しない形で、神の選びがなされている。それが「業によらず、召した方のに基づいて、ことが成就する」(12節)の意味である。13節の引用「ヤコブを私は愛し、エソウを憎んだ」(マラキ1:3)においては二重の選び・予定という考えが出てくる。すなわちヤコブは神に選ばれ、エソウが神に捨てられたという二重の選びである。すなわち神はイスラエルの歴史において、創造者として絶対的自由をもって行動される、ある者たちに憐れみを与え、ある者たちをかたくなにされる(18節)、それはあたかも陶器師と粘土の関係にたとえられている(21節)。
 だとすると神の選びはきわめて「恣意的で理不尽なもの」にならないか「神がなさることはおかしい、神は不正、不公平になのではないか」というのがパウロの論敵の見解であろう、14節。これに対して、パウロは神の憐れれみの絶対的独一性をあげる、神はご自身が憐れもうと欲する者を憐れみ、慈悲深くあろうと欲する者に慈悲深い」(出エジ33:19)。神に愛される、神の憐れみを受ける、すなわち神の選びは、人間の意志や「走り」(競技会での競争、業)によるのでなく、神の一方的な御心による、16節。もし神の選びが人間の側の「業に基づいてなされる」としたら、神による人間の選びは存在せず、罪人の選びも、使徒への召しも存在しえないことになる。神の歴史におけるその力の提示は出エジプトの出来事における「パロ」の登場にもみられる(17節)。18節の「頑な」は、人間的な「頑固さ」ではなく、神の力、支配を受け入れない人間の「罪」として言われ、さらに人を頑なにするのは《神の行為》である、出エジ9:16など。特に、ロマ8:18節の「神は欲する者を《頑なに》される」恐ろしい言葉である。「頑なにする主体」は、いつも神である。申命2:30、出エジ7:3、9:12、ヨハネ12:40など。18節は「ユダヤ人のかたくな」が神に起因していると告げている。
 神の人間歴史に対する究極的な御心については、22以下にしるされている。
 そしてこの歴史においては《現在の信仰をもたないユダヤ教人》が「怒りの器」と表現され、他方現在のキリスト者が「憐れみの器」と表現されている。「器」は陶器師なる神が行動した、製作した陶器の器、人々を指している。「怒り」「憐れみ」は「神の意図」を意味する。しかしながら「神の意図とその行動」はユダヤ人には矛盾したものとなっている。というのは「滅びに至らんとしている怒りの器」ユダヤ人に「神は寛容をもって耐えられる」22節からだ。「かたくな」なユダヤ人になお立ち帰る可能性を神は残しておられる。
 そして「隣れみの器」キリスト者、その中にはユダヤ人も異邦人もいるのだが、特に「ユダヤ人ばかりでなく、異邦人からもお召になった」24節は、神の歴史における行動の決定的な転換観点である。神による異邦人の「召し」は、福音をとおして異邦人を召すという仕方である、第二テサ2:13以下。すなわちイスラエルに限定されていた「神の選び」は世界規模に拡大され、イスラエルと異邦人の分離というユダヤ教的な考えも廃棄されたのだ。