建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、神の選び3  神の恵みの選び ロマ10:1~8

1997-40(1997/10/5)

神の恵みの選び 3  ロマ10:1~8

 「兄弟たちよ、私の心の願望と神に対する私の祈りは、彼らの救いである。私は彼らについて確信している、彼らは神に熱心であるが、しかし正しい知識に適合したものではない。というのは彼らは、神の義を誤解して自分でそれを立てようと試み、神の義に従わなかったからだ。というのは律法の究極の目標は、キリストであり、彼を信じる者すべてにとって義となるためである。
 モーセは述べている、『律法から来た義を行なう者は律法に生きるであろう』と。しかし信仰から来た義はこう語っている、『あなたの心のうちで、誰が天にのぼるであろうと言ってはならない』と。それはキリストを引きおろすことになる。あるいは『誰が深淵にくだるであろう』と言うな。それはキリストを死人から引き上げることになる。むしろその義はこう言ってるではないか、『信仰の言葉はあなたに近い。あなたの口に、あなたの心にある』。これは私たちの宣教する信仰の言葉である」(今日はここまで)。
 「というのは、あなたがその口でイエスは主であると告白し、その心で、神が彼を死人の中からよみがえらせたと信じるならば、あなたは救われるであろうからだ。すなわち人は心で信じて義とせられ、口で告白して救われるのだ。聖書にこう書いてあるからだ、『彼を信じる者はだれでも、恥をかかされない』と。ユダヤ人とギリシャ人との相違はない彼を呼び求める者すべてに、ご自分の豊かさを受けさせるお方は、一人の同じ主であるからだ。『主の名を呼び求めるはすべて救われるであろう』」。
 パウロは、9:29において、イスラエルが救いから締め出された、をふまえて、彼の祈りはひたすらイスラエルの救いにあるという。パウロにとって、イスラエルの不信仰、頑なさは、永続的なものではなく、あくまで暫定的なもの、異邦人の救いのためである、11:25。
 イスラエルの「神に対する熱心」(10、2)の例はアロンの孫ピネハス(民数25:13)、エリア(列王上19:10)などがある。のちに「神への熱心」はマカベア時代には「律法への熱心」へと移行した、ピリピ3:5以下。
 この 「律法への熱心」の重大な誤りは、「神の義を誤解して」「神の義を律法の義へと変質させた」点にあった。すなわちイスラエルは、神の義ではなく「自分の義を立てようと努力し、結果的に神の義に従うことを拒否する」に至った点である(10:3)。パウロの述べている「神の義に従う」は、神の義を信仰において受け入れる、承認することを意味していたはずだ。言い換えると、この神の義はもはやトーラーの領域ではなく、もっと広い神の歴史における行動、キリストの贖いの死において示された神ご自身の義の承認に関わるテーマであったのだが、イスラエルは、歴史における神の「新しい義の確立」その人間における義の行為ではなく、罪人なる人間の、神による義の確立、罪人の義認に対して、まったくの無知と誤解に陥っていた。
 4節は、翻訳が少し難しい。「キリストは律法の《終り》となられた」協会訳、前田訳松木訳、ケーゼマン。「終り・テロス」には、「終り」と「目標」、「成就・完成」の意味があるが、ヴィルケンス訳は「究極の目標」。キリストは「律法の終り」という翻訳の立場は、こう解釈する、敬虔な人々、ユダヤ人が律法の業をとおして自分自身で神の前に義とされるための、あらゆる努力はキリストによって終りを告げた、これが「キリストは律法の終り」の意味だという。
 これに対してこの「テロス」を「終り」と「目標」双方にとる解釈もある。モーセのトーラーは罪人を呪いのもとにしばりつける力をもつが、他方、キリストは、ご自身の贖いの死をとおして律法のもつ呪いの力を廃絶してしまわれた。ユダヤ人は律法を実現しょうとして義を得ようとしたが果せなかった。キリストは(1)信仰者に義を創り出して、創造してくださる (2)ユダヤ人が律法から期待してきたこと・義を成就してくださる。律法主義ではなく、トーラーは、本来神の御心の提示であって、「キリスト:イエスにおいてトーラーは《生命のみ霊の法》となる」(ロマ8:2)という意味で《キリストは律法の目標である》。
 5節以下。「律法を行なった者は、律法において生きるであろう」はレビ18:5の引用、ガラ3:13。パウロはガラ3:10で申命27:26を引用している「律法の書に書いてあることを一切守らず、行なうこともしない者は、呪われる」。                       
 6節の「信仰からの義はこう言う『あなたは心の中で言ってはならない、誰が天に上るのであろうか』」は申命30:12「誰がわれわれのために天に上り、この戒めをわれわれのところへ持ってきて、われわれにこの戒め聞かせ、行なわせるであろうか」に由来しているが、これをパウロは変えている。
 パウロは「天に上る」「深淵に下る」を人間が律法を守るための《努力》従来の宗教的な真理を把握するための求道の比喩で用いている。しかしキリストの贖いの死、死人からの復活によって、時も世界の様相も決定的に変化した。「天」は復活したキリストが「上げられたところ」である(8:34)、地上の人間が「天に上る」ということは、神がよみがえらせてキリストを天に上げられた「神の行為」を無視し、無効にし「上げられたキリストを引きおろすことになる」(10:6)。また「誰が深淵に下るであろうか、と言うな」(10:7)における「深淵」をパウロは「死者の住む国」と解釈しつつ、地上の人間が「深淵に下る」のは、死人からキリストをよみがえらせた神の業を無視し、キリストを「死人から引き上げることとなる」(10:7)とパウロは言う。トーラーを聞くために、天に上ることも、深淵に下る必要はない。
 神によるキリストの贖いの死と復活という「新しい時」の到来においては、「《信仰の言葉》は、《あなたに近い、あなたの口に、あなたの心に近い》」(10:8)。後半は申命30:14からの引用であるが、申命30章においては、主語はトーラーの言葉になっている。これをパウロは主語を入れ換え「信仰の言葉」とした。この信仰の言葉は、使徒たちが「今ここで宣教している言葉」である、8節後半。キリスト者らは《今ここでの礼拝において》使徒たちの語る《信仰の言葉》を聞くことができるのだ。