建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、神の選び4 信仰の起り ロマ10:9~17

1997-41(1997/10/12)

信仰の起り ロマ10:9~17

 「というのは、あなたが自分の口で『イエスは主である』と告白し、また自分の心で神はイエスを死人の中からよみがえらせたもうた、と信じるならば、あなたは救われるであろうからだ。すなわち人は心で信じて、義に至り、口で告白して救いに至るのだ。というのは聖書はこう言っているからだ、『彼を信じる者はだれでも恥をかかされることがない』。
 すなわちユダヤ人と異邦人の間には、いかなる相違もない。というのは、呼び求める者すべてにご自分の豊かさを授けられ、すべての者を支配するお方は、一人の同じ主であるからだ。すなわち『主の名を呼び求める者はだれでも救われるであろう』。
 さてそのお方への信仰を把握していなかった存在を、人々はどのようにして呼び求めることができるだろうか。聞いたことがなかったお方をどのようにして信じることができるのであろうか。宣教する者なくしては、どのようにして聞くことができるのだろうか。派遣されたことがなければ、どのようして宣教することができるであろうか。こう書かれているとおりである、『善きことを宣教する者たちの足は、なんと時宜にかなっていることであろうか』。
 しかしすべての者が福音に従ったのではなかった。すなわちイザヤは言っている『主よいったい誰が私たちの使信を信じていたのでしょうか』。かくしてこう言える、信仰は耳から入ってくる使信から、そして使信はキリストの言葉から来るのだ」ヴィルケンス訳
 9節の「あなたの口で、あなたの心で」は申命30:14(前の10:8の引用)に由来する。パウロは《洗礼式の信仰告白の定型》から受け継いだと解釈されている。パウロはここで「心の中での信仰」と「口での信仰告白」を一体のものとして捉えている。しかもこの行為は「洗礼式」の志願者の「信仰告白の行為」と結合されている。《心の中で、信じていれば別に洗礼を受けなくても、人々・先輩の信仰者の前で信仰告白をしなくてもよい、教会に所属しなくてもよい》といった《分裂、心と口との内面の信仰と信仰の告白の行為との分裂》をパウロは批判する。目に見えない内面の信仰が信仰の告白という行為となり、洗礼式という目に見える儀式となる、これが信仰義認のプロセス・過程である。信仰の告白は教会がつくった《信仰告白:箇条》を受け入れて、それを文字どおりなぞる形で自分で告白する、そのことによって洗礼が授けられ、人は個別の教会に所属する、パウロによれば、これが「義認」すなわち「救われる」(9節)形である。
 「信仰の言葉」(8節)の具体的内容が9節の「イエスが主である」「神が彼を死入の中からよみがえらせたもうたと信じる」である。イエスが「主」であるのは、よみがえりに根拠づけられていると考えられる。キリスト教信仰が「イエスのよみがえり」を基本としている点は(「心で神がイエスを死人の中からよみがえらせたと信じる」9節)重要である。11節は、9:33で引用された、イザヤ28:16のもの。
 そうなると、ここでは「律法の業の義」が排除されている、人の義認はこの信仰とこの告白だけが問題となるので、「ユダヤ人と異邦人の相違」は廃棄される、12節。イエスはすべての者の「一人の同一の主」であるから、12節。
 13節は、ヨエル2:32からの引用。行伝2:21。「主の名を呼び求める」は信仰者の側の行為、義を求め、救いを求める者に、神の義が示される、とパウロは言う、いわゆる万人救済論である。
 14節から、新しいテーマが始まる。
 人間はまったく自分が知ることのない存在、神をどのようにして呼び求めることができるのか。「その方への信仰を把握していなかった存在を、どのようにして呼び求めることができるのだろうか」14節。呼び求めるには、あらかじめその存在を知つていなければならない。これは「神の似像」(創世記2章)の解釈をめぐって、バルトとブルンナーの間で論争されたポイントである。ブルンナーは人間存在には「神の似像」はすでに堕落と共に破壊されているがその似像の「残滓のようなもの・理性」が残存している。これを手がかりに人間は知られざる神を呼び求める、と考えた。バルトはそのような残滓は存在しない、神が呼び掛けてくだっさて、はじめて人間は神に呼び掛けることが可能になると考えた。14節後半で、パウロは、信仰の成立の本質についての問いを提起している。「聞いたことがなかったお方をどのようにして信じることができようか」。信仰の成立「信じること」はここにあるように、「聞くこと」(14節二回)に基礎づけられる。人間存在自体、人間の宗教心・信仰心から起るのではない。これは信仰の成立が人間存在を超越していること、を意味する。信仰は「われわれの外から・エクストラ・ノス」、神からである。ここでの「神から」とは、神は神の御心を伝達する人間を「派遣する」ということである。アブラハムモーセ、士師たち、預言者たち、そして弟子たち、使徒たちを派遣された。この「神に派遣された者たち」(15節)の務めが「宣教」であった(同)。15節後半「善きことを宣教する者たちの足は、なんと時宜にかなっていることであろう」はイザヤ65:1からの自由な引用。通常ここの「ホーライオス」は「ああ、麗しきかな…」と翻訳されて、宣教者の「足」にかけて訳される。しかしケーゼマン訳は「よき使信をもたらす者の足は、なんと適切な時にやって来ることであろう」で、この用語を時間的に、あるいは終末論的に、新しい時の到来と共に、派遺された宣教者とその使信の到来のタイミングにかけて「タイミングよく、時宜にかなった」と翻訳される、ヴィルケンス。先にパウロは、8節で「信仰の言葉」が「あなたの近くにある」と述べたが、それは、使徒的宣教の「到来」を意味していた。
 パウロはいう、終末時の使徒的宣教は、これを受け入れた者と拒絶した者とをくっきりと区分けした。「しかしすべの者が福音に従ったわけではなかった」16節。17節はイザヤ53:1の引用、「いったい誰が私たちの使信を信じたでしょうか」。ユダヤ人の不信仰についてのイザヤの言葉でパウロは、自分の見解を強化した。
 17節はこれまでの信仰成立論のまとめである。「かくて信仰は聞くことから来るのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのだ」。パウロによれば、信仰は伝えられ、語られた使徒的使信を聞くことから成立する。「聞くことは《キリストの言葉》から来るのだ」における「キリストの言葉・レーマ」は「キリストについての使信」の意味もむろんある。「レーマ・言葉」は本来、語られた個々の言葉の意味で、ここでは生前のイエスの語られた言葉の意味はほとんどなく、天にあげられたキリストの言葉のこと。預言者たちの言葉において神ご自身が行動されたように、使徒的な宣教においてはキリストご自身が語られ、行動される。ロマ15:18「キリストが私をとおして、言葉と業、しるしと不思議の力、聖霊の力をとおして働いておられる」。